バックハウスってこんなに美しい音だったんだ。

冬野由記

2006年11月24日 01:16

 最近、バックハウスのライブ録音を聴く機会があった。
 名ピアニストにやたらと二つ名(キャッチコピー)を与えるのが流行った時代があって、バックハウスは「鍵盤上の獅子王」などと呼ばれていた。
 もっとも、この呼び名は、演奏スタイルに対するというよりも、その風貌によるものではないか、と私は思っているのだが・・・
 さて、ライブ録音を聴くと、その音色の美しさに驚く。ピアノの響きが透明で、ひとつひとつの音は粒だって煌びやかと言っていいほど光っている。
 サウンド全体が輝いているというのではなくて、ひとつひとつの音が真珠の一粒一粒のように、それぞれが艶と上品な光源を持っていて、それらから織り出される響き全体は、時にシャンデリアのように豪華であり、ときに小粒の真珠をあしらった腕飾りのように繊細で細緻な巧みを見せる。かつ、そのシャンデリアを飾る真珠の一粒一粒が見分けられるほどの精緻さがあるために、彼の演奏は厳しい緊張感と迫力を備えている。
 バックハウスというピアニストが、こんなにも「美しく、精緻な」ピアニストであるということを、あらためて再発見したといったところだ。精緻さということでは、昔『ルビンシュタイン(アントンのほう)の演奏後に、床にこぼれ落ちたたくさんのオタマジャクシを箒とちりとりで集めている若きバックハウス』というカリカチュアがあったそうで、つとに知られていたことではあるが、音色の美しさに言及したものは、私は不勉強なのか、あまり記憶にない。
 それに、今日の多くの大家たちはスタインウェイのピアノを愛用しているが、彼はベーゼンドルファーを愛用していたと聞いたことがある。ベーゼンドルファーでこれだけ個々の音がクリアで切れがよく、響きがまっすぐ立ち上がるサウンドを生み出せるのだとしたら(別にベーゼンドルファーがスタインウェイに劣ると言っているのではない。ベーゼンドルファーの持ち味が、スタインウェイに比べて、中庸を重んじた柔らかな音の立ち上がり方にあるという一般論からすると)バックハウスの技量はものすごい域に達していたのかも知れない。つまり、彼は、わざわざスタインウェイを使わなくても十分「スタインウェイ的」なサウンドを生み出せたということなのだろう。
 彼は、レコードではデッカに多くの録音を残しており、名演奏も多いが、こと音色や響きに関して言えば、こんなではなかった。もしかしたら、録音の所為で、彼の「音」の魅力はあまり聞こえてこなかったのではないかという気がする。何せ、バックハウスは、生の音を聴く機会が無かったので、正確なところはわからないが、彼のように、同じレーベルにばかり録音が集中していると、そのレーベルの録音技術や製作(ミキシングなども含めて)方針に左右されてしまうのは仕方ないのかもしれない。
 そもそも、私の個人的な印象では、当時のデッカの録音で、ことピアノに関しては、あまりいい音で録られているものは無いのではないかと思う。高校生だった頃に、地元のレコード店に有名なレコード評論家が来店して、誰だったか有名なピアニストのベートーベンのソナタの新録音を、その店の最新のオーディオセットで一緒に聴くという鑑賞会があったが、なんだか硬く乾燥した音でがっかりした記憶がある。それがデッカの最新録音だった。評論家先生も困って「どうもこのオーディオはオケには好いがピアノや室内楽向けには合わないのかな」と言っていたが、私には「録音が悪い」としか思えなかった。
 私は、二十世紀の大ピアニストとしては、エミール=ギレリスの無垢で透明な、まったく濁りの無い音がとても好きなのだが、バックハウスもまた、美しい音の持ち主だったのだなぁと、いまさらながら感心した次第である。
 ちなみに、ギレリスも昔「鋼鉄の指」などという滑稽なキャッチをもらっていた。彼の音のどこが鋼鉄なのか、私にはいまだにわからない。せめて「水晶」とか言ってくれればまだ納得できるのだけれども。
 そうそう、言い忘れました。
 最近聴いたバックハウスのライブ録音。シューマンの協奏曲とベートーベンの「皇帝」です。わけても「皇帝」はゴージャス、かつ美しい名演でした。

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