さぽろぐ

日記・一般  |その他の都道府県・海外

ログインヘルプ


インフォメーション


QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人
プロフィール
冬野由記
冬野由記
標高と緯度の高いところを志向する癖があります。そんなわけで、北国でのアウトドアや旅が好きになってしまいました。
旅の印象を絵にしたり、興が乗れば旅に携帯した笛を吹いたりすることもあります。

2006年11月26日

アファナシェフのこと

 昨日、バックハウスのことを書いたので、これまで生で聴いたいろいろなピアニストのことを思い起こしてみた。
 バックハウスは(当然、かつ残念ながら)生で聴くことはできなかったけれど、思えばいろんな人の演奏を聴く機会に恵まれてきた。
 少年時代は地方(九州)に住んでいたし、首都圏に暮らしていた学生時代はお金が無くてたいそうな演奏会には出かけられなかったし、社会人になれば時間のやりくりが難しかった。
 それに、時間とお金ができればオーケストラもの中心に、まず予定を立てたから、ピアニストを聴いたといっても、大半は日本のオーケストラとの協演になる。
 アルゲリチ(彼女については、運のいいことにソロ・コンサートを聴きに行くことができた)、ラローチャ、ブレンデル、シフ・・・他にも、あげればきりがないが、日本人ピアニストも印象に残った人たちが沢山居る。小山実稚恵さんは随分前だが、確かヴェーバーの小協奏曲を聴いた。とても印象的な演奏だった。
 さて、演奏自体で、もっとも記憶に残ったピアニストは誰か、というと、アファナシェフである。随分昔になるが、ブラームスの協奏曲第二番を聴いた。
 アファナシェフというと、その当時は、あの大ヴァイオリニスト、クレーメルの伴奏者として知られていたが、そのアファナシェフが主役だというので、興味津々で聴きに行ったのである。
 忘れられない演奏だ。ただし、名演とか秀演とかいうのとは違って、すごく面白い演奏だった。
 まず、のっけからおそろしく遅いテンポで始まった。この際立って遅いテンポは最後まで維持された。(オーケストラは大変だったろう)
 結果、何が起きたかというと、今まで普通に聴く分には流れの中で捉えてきたこまかな音たちにいたるまで、すべての音のパーツが、まるで何もかも白日の下にさらけ出すというように目の前に並べられていったのである。
 時計を分解掃除しているような感じだった。すべてのパーツを分解して組み立てなおす。しかも、その作業を目の前で見せられている状態、と言ったらお分かりいただけるだろうか。
 ただし、こう言っては何だが、アファナシェフの技量は、たとえばグールドとか、それこそヴァイオリンならクレーメルのようなおそろしく精緻な技巧を持つまでには至っていない。つまり、このアプローチは彼の技量の範囲を超えているのである。
 演奏している間に、何かに突き動かされて自分の器を超えた熱狂にとりつかれる演奏というのはたまにあるが、アプローチそのものが自身の枠を超えているというのは、プロの演奏としては珍しい。
 悪口を言っているのではない。
 こういう果敢な演奏を目の当たりにすることができたということを、私は幸運だったと感じているのである。
 どんな楽器でも(歌でもそうかもしれないが)演奏経験のある人ならわかると思うが、際立って遅いテンポで演奏するのは、速いテンポでやるよりも格段に難しい。どんな小さな音符でも、フレージングでも、呼吸でも、少しでも曖昧な扱いがあれば露骨に表れてしまうからである。(だから、練習法としてはめざましい効果がある)
 アファナシェフは、ブラームスの分解掃除をしてみせてくれたのである。
 すべてのパーツをいったんばらして、机の上に並べて、それからゆっくりと、とてもゆっくりと順番に組み立てていく。
 その結果、演奏中あちこちに隙間が生じたし、ミスタッチも沢山あった。分解掃除が終わってみると、おやおや? いくつか組み損ねたパーツが机の上に残っている、というような結果になったが、それでもそんな疵を差し引いてなお余りある成果があったと思う。
 感動というのは、名演奏にだけあるものじゃない。
 音楽家と課題を共有して、一緒に奮闘する機会を得ることも演奏会の楽しみだ。そして、そんな機会は滅多にあるものではない。
 アファナシェフは、そんな感動を与えてくれたピアニストなのである。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 10:47Comments(0)音楽

2006年11月26日

朝食プリンもどき(洋風茶碗蒸し)


 今日の朝は、いつものオムレツではなく、何かちょっと違った卵料理を、と思って、こんなのを作ってみました。
 なかなか美味しかった。
 プリンもどきというか、洋風の茶碗蒸しと言ったほうがいいかもしれません。
 作りかた:
 1.まず、プリンを作るつもりで卵と牛乳をあわせて、よく混ぜる。
   ただし、お菓子ではないので、砂糖は入れません。塩、胡椒で少し味を調えるだけ。
   卵はひとり分なら1個でいいでしょうね。
   牛乳はお好みで。私は卵の黄身と同じくらいにとどめました。
 2.好みの「具」を軽く加熱します。
   今朝は、冷蔵庫にあったブロッコリーを使い、電子レンジで30秒加熱。
   他には、たとえばトマト一切れとか、プチトマトなんかも合うと思います。
   アスパラガス、インゲン豆、茸の類、ジャガイモ一切れなんかもいいと思います。
   それに、お好きなら薄切りのハムやベーコン、ソーセージの類も入れてかまわないでしょう。
   要するに、洋風茶碗蒸しですから。
 3.容器(小鉢や、コーヒーカップがいいと思いますよ)に「1」を入れて、「2」を盛り付けます。
 4.その上に、薄切りのチーズを乗せます。パルメザンを振ってもいいです。
   このあたりはグラタン風という感じです。
 5.これを、天板にお湯を張った状態で、十分に予熱しておいたオーブンに入れて蒸し焼きにします。
   ひとり分なら5分くらいでもOKでしょうが、これもお好みで。
   私は、表面はしっかり焼けていて、スプーンを入れるとトロリという感じにしたかったので、5分で済ませました。
 6.で、今朝は、上の写真のような朝食になりました。
   卵とチーズの風味が混ざり合って、美味しかったですね。
   具をいろいろ変えて、これからもやってみようと思います。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 09:40Comments(0)料理、レシピ

2006年11月25日

「夕張の明日」

 今朝の毎日新聞に、特集で夕張市のことが採りあげられていた。財政破綻自治体のいわばもっとも深刻な例として採りあげられているのだが、市が提示した再建策が市民生活に厳しいものになるため、夕張を離れる人(とくに若い層)の動きが加速されることが予想され、人口が一万を切る日が予想よりも早まるのではないか、ということだ。
 私が旅で訪れたとき、すくなくとも町の人たちはがんばっていたと思う。小学校を改装して宿泊施設として旅行者に安価な宿を提供していた。私は一人旅だったが、広い「元教室」を独り占めできて、なんだかとても面白かった。
 そもそも、炭鉱都市という、国の国策から町が形成され発展していったのだから、閉山後の町の活力維持なんかは、国を挙げてフォローするべきだったんだろうが、地元に投げ出された中で、博物館やメロンなど、市や市民でなんとか踏ん張ってきたんだと思う。「ゆうばりファンタ」は、映画関係者やファンの間でも評判がよかったし、内容的には見事な成功企画だったはずなのに・・・
 せめてNPO(申請中)「ゆうばりファンタ」を応援して、映画祭の再生を願いたい。

 今夜は、テレビで「氷点」をやるそうだ。我が家のチャネル権者は、おそらく「氷点」を観るだろうな。このドラマ(小説)も北海道が舞台だ。北海道と言うとなぜ、こういう宿命的な暗さの舞台とされるんだろうか。(「鈴蘭」もそうだった)国策によって既定される発展やビジョンがあり、それが破れたときには放り出されるのと、親の思惑や感情で押し付けられた出生の宿命とその破綻というシチュエーションが、なんだか重なる。

 さて、今夜と明日は、また連載小説のほうのブログ「地上の楽園 または 神々の永遠の火」に、続きを何篇か書こう。これも北海道(それも夕張炭鉱をイメージしているのですが)が舞台なのだが、こっちのほうは、せめて明るく元気よくと行きたいところだ。うーん。これからどう展開させようか・・・

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 11:21Comments(0)徒然なるままに

2006年11月24日

「木目細やか」って?

 今回は、こうるさいオヤジの小言であります。
 最近、テレビのナレーションなどで「きめこまやか」という不思議な言葉をよく聞くようになった。
 私なんぞには違和感がある。
「木目」が細やかだ、というのは、どんな木目なのだろう。
 木の目、つまり木目(もくめ)が細かく詰まっているように、丁寧で緻密な様子を言う「木目細かい」という言葉と、心配りが行き届いていることを言う「細やか」という言葉が混同された上に合体させられたのだろうが・・・
 気の利いた修辞(レトリック)として、鉤括弧付きで使われるなら、なかなかしゃれた造語といえるのだが、どうも普通に使われすぎている気がする。中畑選手の「絶好調」(ご存知のとおり、中畑選手が発明した、絶好と好調を合わせた造語だが、今やすっかり定着してしまった)以来の「新造語」定番になる日も近いかもしれないなぁ。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 23:40Comments(2)徒然なるままに

2006年11月24日

バックハウスってこんなに美しい音だったんだ。

 最近、バックハウスのライブ録音を聴く機会があった。
 名ピアニストにやたらと二つ名(キャッチコピー)を与えるのが流行った時代があって、バックハウスは「鍵盤上の獅子王」などと呼ばれていた。
 もっとも、この呼び名は、演奏スタイルに対するというよりも、その風貌によるものではないか、と私は思っているのだが・・・
 さて、ライブ録音を聴くと、その音色の美しさに驚く。ピアノの響きが透明で、ひとつひとつの音は粒だって煌びやかと言っていいほど光っている。
 サウンド全体が輝いているというのではなくて、ひとつひとつの音が真珠の一粒一粒のように、それぞれが艶と上品な光源を持っていて、それらから織り出される響き全体は、時にシャンデリアのように豪華であり、ときに小粒の真珠をあしらった腕飾りのように繊細で細緻な巧みを見せる。かつ、そのシャンデリアを飾る真珠の一粒一粒が見分けられるほどの精緻さがあるために、彼の演奏は厳しい緊張感と迫力を備えている。
 バックハウスというピアニストが、こんなにも「美しく、精緻な」ピアニストであるということを、あらためて再発見したといったところだ。精緻さということでは、昔『ルビンシュタイン(アントンのほう)の演奏後に、床にこぼれ落ちたたくさんのオタマジャクシを箒とちりとりで集めている若きバックハウス』というカリカチュアがあったそうで、つとに知られていたことではあるが、音色の美しさに言及したものは、私は不勉強なのか、あまり記憶にない。
 それに、今日の多くの大家たちはスタインウェイのピアノを愛用しているが、彼はベーゼンドルファーを愛用していたと聞いたことがある。ベーゼンドルファーでこれだけ個々の音がクリアで切れがよく、響きがまっすぐ立ち上がるサウンドを生み出せるのだとしたら(別にベーゼンドルファーがスタインウェイに劣ると言っているのではない。ベーゼンドルファーの持ち味が、スタインウェイに比べて、中庸を重んじた柔らかな音の立ち上がり方にあるという一般論からすると)バックハウスの技量はものすごい域に達していたのかも知れない。つまり、彼は、わざわざスタインウェイを使わなくても十分「スタインウェイ的」なサウンドを生み出せたということなのだろう。
 彼は、レコードではデッカに多くの録音を残しており、名演奏も多いが、こと音色や響きに関して言えば、こんなではなかった。もしかしたら、録音の所為で、彼の「音」の魅力はあまり聞こえてこなかったのではないかという気がする。何せ、バックハウスは、生の音を聴く機会が無かったので、正確なところはわからないが、彼のように、同じレーベルにばかり録音が集中していると、そのレーベルの録音技術や製作(ミキシングなども含めて)方針に左右されてしまうのは仕方ないのかもしれない。
 そもそも、私の個人的な印象では、当時のデッカの録音で、ことピアノに関しては、あまりいい音で録られているものは無いのではないかと思う。高校生だった頃に、地元のレコード店に有名なレコード評論家が来店して、誰だったか有名なピアニストのベートーベンのソナタの新録音を、その店の最新のオーディオセットで一緒に聴くという鑑賞会があったが、なんだか硬く乾燥した音でがっかりした記憶がある。それがデッカの最新録音だった。評論家先生も困って「どうもこのオーディオはオケには好いがピアノや室内楽向けには合わないのかな」と言っていたが、私には「録音が悪い」としか思えなかった。
 私は、二十世紀の大ピアニストとしては、エミール=ギレリスの無垢で透明な、まったく濁りの無い音がとても好きなのだが、バックハウスもまた、美しい音の持ち主だったのだなぁと、いまさらながら感心した次第である。
 ちなみに、ギレリスも昔「鋼鉄の指」などという滑稽なキャッチをもらっていた。彼の音のどこが鋼鉄なのか、私にはいまだにわからない。せめて「水晶」とか言ってくれればまだ納得できるのだけれども。
 そうそう、言い忘れました。
 最近聴いたバックハウスのライブ録音。シューマンの協奏曲とベートーベンの「皇帝」です。わけても「皇帝」はゴージャス、かつ美しい名演でした。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 01:16Comments(0)音楽

2006年11月22日

モーツァルトのフルート協奏曲

 モーツァルトのフルート協奏曲は、何かと逸話にことかかない。
 第二番が、オーボエ協奏曲のあからさまな焼き直しであることはよく知られている。
 そんな事情もあってか、第一番のほうがフルートのための唯一のオリジナル協奏曲であり、曲も出来がいいと考える考え方もあるが、どうだろうか。
 私は決して上手な笛吹きではないが、吹いてみると二番のほうがはるかにフルート向き、というか木管にしっくりくるのである。
 一番は、音の飛び方やなんかにちょっと困難がある。ただ音が飛んでいるので吹きにくいと言っているわけではなく、音楽的な力の加減(流れに応じて、力をこめたい場所とすぅっと抜きたい箇所がある。そのバランスが笛にとっては自然になれないということ)が、どうも笛向きではないように感じる。今のフルートだからというのでもなさそうである。トラヴェルソではもっと難しいのではないか知らん。特に低音を豊かにしっかりと「ビーン・ビーン」と響かせなければならないとしか思えないところが多すぎる。二番では、低音はアクセントとして適度に配置されているように思う。
 この二曲の協奏曲は注文主からもクレームがついたらしいことが知られている。だから、お金も最初の約束どおりには支払われていない。もしかしたら、一番も何か他の楽器の曲の焼き直しではなかったろうか。現に、一番のほうも、第二楽章アンダンテが難しすぎるとクレームがついて、あの「アンダンテ」が別途作曲されたという話もある。
 だいたい、モーツァルトの曲は、まるでその楽器のためにあつらえたかのようなフィット感というのが身上だし、きちんと音楽的な演奏をするのは難しいかも知れないが、とりあえず演奏するにはとっつきやすいという特性もある。それが、注文主の素人笛吹きから「これじゃ難しすぎて吹けないよ」とクレームがつくのだから、何か変だ。実際、他の人のために書いた「フルートとハープのための協奏曲」は、何と演奏者に対して優しく(易しく)、かつ見事な音楽になっていることか。
 やはり、一番も変だ。
 第一、モーツァルトが「一番はちゃんと書いたが、二曲目は面倒になったのでごまかした」というのはしっくりこない。「あいつにフルートの曲をわざわざ書いてやるのは億劫だ。二曲とも焼き直しで済まそう」のほうがありそうな気がする。 

 一番の楽譜を眺めながら、そして、無謀にも時々それを譜面台にのせて吹いてみたりしながら気づいたことがある。どうも、この一番によく似た感じを持った曲を、他の楽器で聴いたことがある。

 ヴァイオリン協奏曲である。たとえば三番。五番でもいい。どうです? 似てませんか。メロディの作り。音とびの具合。低音の伸びを要求されるそこかしこ。フルート協奏曲第一番の第二楽章など、最初のフレーズの末尾の放ち具合なんか、ヴァイオリンだと自然に抜くことができる。それに第三楽章がアクセントの利いたメヌエット風になっているところなんか。

 で、今の私は、モーツァルトのフルート協奏曲第一番は、ヴァイオリン協奏曲として思いついたものを(注文主を気に入らなかったのかも知れないが)面倒なので、フルート協奏曲ということにして渡したのではないか、と思っているのである。
 どなたか、この曲をヴァイオリンで演ってみてくれないか知らん。この耳で確かめてみたいんですがね。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 00:36Comments(0)音楽

2006年11月22日

ベートーベンの第七交響曲

「のだめカンタービレ」というコミックとドラマが人気のようだ。(音楽仲間たちの間でもよく話題になるし、ポスターや番宣もよくみかける)
 私はまだ観ていない、というか、私にはTVチャンネルの支配権が無い。コミックもまだ読んでいない。別に避けているわけではないのだが。
 番宣などみていると、ベートーベンの第七交響曲が流れているから、この曲はきっと、何か重要なところで活躍するんだろうな、と想像しているのだが、いかがでしょうか。
 ところで、この曲は、私がクラシック音楽をかなりまじめに聴きだした頃の、思い出深い曲のひとつなのである。
 といっても「初恋の・・・」とか、あるいはも少し真面目に「誰かの演奏に感激して好きになった」とかいう痛快な話ではないのだが。
(初恋の思い出にからむ曲は、以前の記事に採りあげた「ツァラストラはかく語りき」なのだが、その話はまたいずれ・・・)

 クラシックをまじめに、ある程度体系的に聴き始めたのは高校生の頃だった。
 当時の多くのクラシックファンがそうであったように、私は、ベートーベンの交響曲を順次聴きこみながら、それぞれの曲の「お気に入りの演奏」を探し出してゆくという時期を持った。
 エロイカ(第三交響曲)から始まり、第九、五番、六番という風にレコードを毎月のように買い漁り、お気に入りの演奏を見つけるまで「あれでもない、これでもない」「これはなかなか好いが、このあたりがいまひとつ」といった具合に、同じ曲のいろいろな演奏のレコードを何枚も何枚も買い続けた。同じ指揮者、同じオーケストラでも録音時期やライブかスタジオかでも相当違うし、とにかく買い続け、聴きまくった。
 おかげで、当時の批評で採りあげている「推薦盤」なるものばかりが好い演奏ではない、ということも学んだが、その曲の魅力をいろいろな視点で発見する機会を多く持つこともできたから、今思うと決して浪費ではなかったと思う。
 それに、最初聴いたときはあまり感心しなかった演奏でも、他の演奏を聴いて聴きなおすと、それまで気づかなかった美点に気づかされることも少なくなかった。こういった経験は、その後、レコードでもライブでも、いろいろな可能性を秘めた演奏を、まず迎え入れて広く楽しむことの面白さを身に付ける上で、おおいに役立ったといえる。

 さて、この「べー七」さんであるが、実は、当初「名演」と言われたレコードをいくつか聴いても、まったく面白くなかったのである。
 フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、ベーム、クレンペラー・・・それに当時「若き天才指揮者」なんて言われていたアバド・・・と、いろいろ聴いた。まずは、当時の批評界で採りあげられていたものを順次聴いてみたのである。それぞれに指揮者やオーケストラの魅力は感じるが、肝心の曲自体の魅力が捕まえられない。
 ちなみに、アバド(七十年代にデッカにヴィーン・フィルと録音したもの)は、カップリングされていた八番がすごく好くて、そちらに感激してしまった。今でも名演奏のひとつだと思う。(大家になってからヴィーン・フィルやベルリン・フィルと録(い)れたのも悪くは無いが、このデッカ盤にはかなわない。この演奏については、また後日、八番について触れるときにでも書いてみたい。)
 かなり聴きこんだあげく「この今日は名曲扱いされているが、実はそうでもないんじゃないか」などと不遜なことを思ったくらい、当時の私は困ってしまったのである。
 そんなとき、レコード店で廉価盤コーナーを漁っていた私の目に、随分とレトロな感じの指揮者の写真が白いジャケットの中央に小さく、四角くおさまっている渋いレコードを見つけた。渋いジャケットだったが、なんとなく品格とか風格のようなものを感じさせた。その大き目の蝶ネクタイを締めた、痩せた小柄な印象の老人は、背筋をしっかりと伸ばして、写真の外に居並んでいるのであろうオーケストラに向かって、何か大きな力を放っているように見えた。指揮者の名前は知らなかったが、オーケストラはパリ音楽院管弦楽団。フランスの昔の名門オーケストラのベートーベンというのも面白いかもしれないと思って、買ってみた。私はフルートをかじっていたので、昔、このオーケストラに居たはずのモイーズのことを思ったのかもしれない。
 で、この演奏がすごく面白かったのである。
 テンポ感はトスカニーニのそれに近いが、響きには比べ物にならないほどの厚みと豊かさがある。その上、それぞれのパーツは華麗で、何ともいえないチャーミングな音色を遠慮なく振り撒いている。何よりも私の耳をとらえたのは、弦ののびのびとした歌心である。実によく歌うが、自然この上ない。いわゆるトスカニーニばりのカンタービレが利いているのではなく、風や波がときに私たちに聴かせてくれるような、あるいは、麦畑や林を風が通り抜けるときの豊かな表情、時にそよぎ、時にうねる、そんな歌を聴かせるのである。
 この曲のレコードのライナーノーツには、よくこの曲が「舞踏の聖化と称される」(これは確かヴァーグナーがのたまったのだと聞いた事があるが)旨の「リズムがポイントである」という解説が書かれているが、この演奏をよく聴くと、この曲は、むしろ低弦の伸びやかな動きによって表面のリズミカルな動きをさりげなく支配しているもっと大きなうねりに命があるのだということがわかる。
 いろいろなことをまとめて発見させてくれたという点でも、このレコードには感謝している。
 指揮者の名は、カール=シューリヒトという。ドイツの指揮者である。爾来、私はこの指揮者のファンになったのだが、今のところ裏切られたことは無い。

 その後「べー七」さんは、いろいろと聴いた。かつて「面白くない」と感じた前述の「名演奏」群も、今は面白く聴けている。シューリヒトのお陰である。この出会いの後、捜し求めて(シュワンという輸入盤の目録があった)フランスから彼のベートーベン全集を取り寄せた。そのときの感激というのは忘れられないが、今はどれもCDで簡単に入手できるのだから驚きである。シューリヒトのCDでは、同じ第七交響曲をヴィーン・フィルを指揮したライブ(国連人権デーコンサート)があって、これも実にすばらしい。この演奏では、序奏から主部に入るところのフルートの扱いがとてもユニークなのだが、聴いていると完全に納得できてしまう。「変わっているが確かに正しい」と感じさせてしまうあたりが、この人の魔法みたいなものなのかな。
 さて、この「べー七」であるが、いろいろと聴き込むうちに、現在の私は「緩情楽章のない」「バロック時代の組曲(パルティータ)のような構成感」を持ち「リズムで覆いながら、主役は、揺るがないかに見える低音のうねりである」曲だという理解をしている。
 そういう演奏に出くわしたときは正直言って嬉しい。
 それから、いつごろからか、私は「この曲は楽章間を切らずに続けて演奏すべきではないか。特に、第一楽章と第二楽章は、第一楽章の最後の和音と第二楽章の冒頭はあきらかに継続性が意識されている」と思うようになった。
 最近、ジンマンのCDがそういう演奏をしていたのだが、このときはちょっと悔しかった。そのように演奏したかった人が他にも居たということだ。

 ところで、ベートーベンは、けっこう先輩のモーツァルトの曲から学んでいるところがあったりするのだが、この七番、モーツァルトの三十九番からけっこういろいろと学んでいるような気がするのだが、気のせいだろうか。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 00:32Comments(0)音楽

2006年11月21日

ゆうばりファンタ

 今朝のラジオで、夕張映画祭を再生させるべく、市民の皆さんや賛同者の方たちが「NPO法人ゆうばりファンタ」の設立総会を開いたと言うニュースが耳に入りました。
 このブログで、最初の頃に、夕張を訪問したときの思い出を書いたのだが、久しぶりの明るいニュースでした。
 もうひとつのブログで、夕張をイメージした仮想の炭坑を舞台にしたお話を書いていることもあり、夕張にはそれなりに思いいれもありますから、応援したい気持ちになります。
 設立総会のあとは、NPO(特定非営利活動法人)の認可申請やら何やら、手続きが始まって、認可までには数ヶ月(半年くらいでしょうか)かかるので、皆さん大変だとは思いますが、がんばってください。
 会費とかどのくらいなんでしょうか? 手の届く範囲ならできるだけ応援したい。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 12:30Comments(0)映画

2006年11月19日

ツァラトゥストラは・・・

 リヒャルト=シュトラウスの「ツァラトゥスゥトラはかく語りき」は、彼の管弦楽作品の中でもっとも濃度の濃い凝集された作品だろう。
 つまり「アソビ」が極度に少ない。他には、メタモルフォーゼンがそうかもしれない。ここで言う「アソビ」というのは、音楽的な興趣が乏しいという意味ではなく、贅肉というか(決して余分ではないのだが)余計な脂肪をできるだけそぎ落としている、という意味である。別の言い方をすれば、この二曲は、他の交響詩や交響曲などに比べると体脂肪率が極めて低い、ということである。アスリート・レベルなのだ。いずれもテーマが抽象的だからかもしれない。シュトラウスはイメージを音楽化する技術とセンスは最高に近いから、なまじ具象的なテーマだと、あれこれアソビが入って、作曲行為を存分に楽しんでしまうのかもしれない。
 楽劇では「サロメ」が体脂肪率が低いんだろうな、と思う。サロメに比べれば「薔薇の騎士」なんかは、ずっとふくよかな身体をしている。
 そういう意味では、シュトラウスの作品の中では、これら(ツァラトゥストラ、サロメ)は異色なほうに属すると感じているのだが、いかがだろうか?

「ツァラトゥストラ」については、少年時代にカラヤンがヴィーン・フィルを指揮した演奏を聴いて、すごい曲だなぁと思ったのが、たぶん最初だ。
 その後、レコードではいろいろな演奏を聴いたが、このカラヤンのものほど納得できるものには、なかなかおめにかかれないでいる。もっとも、この録音はウィーン・フィルがすごいのであるが・・・。カラヤンがベルリン・フィルと入れた再録音も、いいけれどもウィーン・フィルとのそれには及ばない。
 カラヤンがベルリン・フィルと来日したとき聴きに行ったのは、すごくよかった。カラヤンという人は実演で、レコードでは想像もつかないような熱情を見せることがあるが、やはりライブは好いものだ。ただし、このときはホールが大き過ぎて、オルガンも備えていなかった(だから確かテクニクスの電子オルガンを代用に使用していた)ので、その点は残念ではあったが。
 他にもいろいろな好演奏はたくさんある。ライナー+シカゴ響、ベーム+ベルリン・フィル、ブロムシュテット+ドレスデン、ケンペ+ドレスデン、実演では、日本のオーケストラの演奏もなかなかのものだ。
 ところで、カラヤン+ウィーン・フィルの演奏が気にいっていると書いたが、ひとつだけ、ティンパニの音だけが気に入らない。ティンパニに関しては、ベルリン・フィルと再録したもののほうが好きなのだ。聴き手というものは、かく我侭なものなのである。

 わたしは、この曲に限らず、ティンパニの音に関する好みがちょっとばかりキツいようだ。やわらかめの「ドーン! ドン!」という音よりも、硬めの「ダン! ダン!」とか「バン!バン!」とか、あえて言えば「タン! タン!」というくらい、切れのよい音が好きなのである。
 だから、たとえばブラームスの一番めのシンフォニーでも「ドン!ドン!ドン!・・・」と始まるとなんとなく居心地が悪くなる。「ダン!ダン!ダン!ダン!・・・」と歯切れよくやって欲しい。トレモロも「ドロドロドロドロ」では困る。「ダ ダ ダ ダ ダ ダ・・・」がいい。
 どなたか、パーカッションに詳しい方、教えていただきたいのですが、こういう音色とか音の切れはバチの選択によるものなんでしょうか? それに、どんな音で演るかということは、楽譜に指定でもあるんでしょうか、それとも指揮者や、あるいはティンパニストの裁量なのでしょうか?

 ところで、タイトルは「ツァラトゥストラ・・・」ですが、シュトラウスの交響詩で、私の一番のお気に入りは「ドン・キホーテ」です。「ツァラトゥストラ」に比べれば、ずっと体脂肪率が高いだけでなく、雅味も豊かで、楽しめる。技巧豊かな巨匠が余裕を持って描いた具象画の大作といった趣がある。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 20:01Comments(0)音楽

2006年11月18日

日本料理って

「日本料理」というとどんな料理を思い浮かべるだろう。
 常識的、かつ典型的なところでは、寿司、天麩羅、蕎麦・・・・。
 外国からのお客様を、最初にお連れするには天麩羅屋さんが便利ではある。典型的な日本料理としては名前も通っているし、何よりありがたいのは、たとえば「ベジタリアンです」というようなお客であれば「精進でお願いします」とオーダーできるからである。寿司だとこうはいかないし、最近増えてきた豆腐料理だと、好き嫌いというほどではないにせよ、個性が強い。食べ物の嗜好とは別の次元で、国によって、あるいは宗教によって、食べ物の禁忌というものがあるから、外国のお客様にはそれなりに気を使う。
 さて「日本料理」というか、日本の「元祖伝統的料理」ってなんだろう、と考えてみた。
 今日、日本料理といわれているものが、ある程度洗練されたものとして流布したのは江戸時代ということらしい。その原型が現れるのはおおむね室町時代だというようなことを何かで読んだか、見た。平安時代なんかは、貴族たちでも「お湯漬け」したご飯に根菜、菜っ葉、魚といった感じだろうか。
 もっとも、よく考えてみると、つい最近までは、それらの「日本料理」は、特定の人々の間で食されていたものだ。階級のことだけでなく、庶民でも江戸時代の「都市生活者」という人々を特定の人々と、ここでは言っている。
 江戸時代が、寿司とか天麩羅とか蕎麦といった今日の「日本料理」につながっていると言っても、外食産業やファーストフードが発達した都市部のことだろう。
 で、元祖日本料理って何だろうと考えて、ふと思いついた。
「鍋だ」
 とにかく、その土地で採れた野菜だったり、魚だったり、肉だったりを適当に水で煮て、それに穀類が入れば上等。それを皆でつつく。
 これなら、かなり昔から、どこでも食べていたんじゃないか。
 今みたいな贅を凝らした鍋でなくて、菜っ葉や大根を煮て、あれば少しの味噌で味をつけて、そこに少しでもお米のような穀類を加えれば最後は雑炊。
 こんどから「典型的な日本料理は何ですか?」と聞かれたら、とりあえず「鍋です」と答えることにしよう。で、
「じゃぁ、その鍋料理に連れて行ってくれ」
と言われたらどうするか。
 現代の鍋は、どの鍋も「典型的伝統料理」イメージからは距離感があるなぁ。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 22:07Comments(3)徒然なるままに

2006年11月17日

ひさしぶりに

 しばらく空いてしまった。
 ここのところ、もうひとつのブログ連載小説「地上の楽園、または神々の永遠の火」のほうにかかっていて、本家のこちら側の記事がおろそかになってます。
 先々週、紅葉狩りに行ったのだが、その記事も書こうと思っていて書かないまま過ぎてしまった。
 今頃「紅葉」でもなかろうが・・・・私の住む茨城県南は、いよいよ色づいてきたという感じである。今年の紅葉はペースが遅い。
 先々週(つまりもう二週間も前)磐梯方面に行ったのだが、お天気もよく、紅葉の色づき具合もちょうどよく、期待以上の素敵な紅葉を味わうことができた。今年の初秋の気候から、紅葉の具合もあまり期待してなかったのだが、来年、また裏磐梯に行きたくなった。
(ちなみに、例年だと、11月頭の連休は、福島あたりの紅葉は盛りで、どうかすると初雪にも会えるという季節感です。南会津や西会津の里紅葉は、紅葉、初雪、柿の実と、刈り取りの終わった田んぼの朽葉色・・・と、運がよければオールスターキャストの秋を楽しめる年もあります)
今年の紅葉狩りの収穫は、阿武隈山地周辺の里紅葉もいい、ということがよくわかったこと。来年は、往路か復路に、いわきから田村、三春あたりの里紅葉を、下道で(高速を使わずに)のんびりと見ながらというルートを選ぼう。
 ところで、わたしは、最近「下道(したみち)」を使うようにしている。
 高速代は高いし、GWとかお盆とか、連休とかで混み合う時期は高速もあまり有難味がない。
 だいたい300KMくらいを目安に、それより短い道のりなら、なるべく下道を使うようにしている。
 この夏のお盆も、下道で(茨城県南の私の住まいから)山梨の八ヶ岳方面まで下道で往ったが、そんなに混まず、快適だった。
 昨今はコンビニもいたるところにあるし、トイレ休憩もしやすくなっているから、けっこう楽だ。
 特に、西方面は、高速だと首都高を経由しなければならないから、案外、下道が楽なのだ。
 我が家からなら、浜名湖、富士五湖、八ヶ岳等々、このあたりまでなら下道で十分行ける。
 一度、お試しあれ。
 ただし、早朝、夜明け前に出発することが原則であるが・・・

 さて、そろそろ、小説のほうにかかりますか。
 手前味噌ながら「地上の楽園・・・・」は、ヴェルヌを下敷きにした北海道の炭坑を舞台にした物語ですが、けっこうオリジナルな要素もたくさん入れてるつもりです。先日、第七章まで終わったところですが、第六章あたりからは、ヴェルヌにはない登場人物や、元にはない話にもなってきてますので・・・
 いく人かの方に、何度か覗いていただいているようですが、感想などうかがえるとうれしいです。簡単なコメントでけっこうですから。

では。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 23:15Comments(0)徒然なるままに

2006年11月03日

リコーダーアンサンブル


こんなコンサートがあります。(クリックしていただければ大きな画面でみられます)
字が小さくて見づらいかもしれませんね。
12月10日(日曜日) 夕方 16:00に六本木ルーテル協会というところでやります。
ご興味ありましたらどうぞ。
ちなみに、このチラシの絵は拙作です。

Copyright (c) 2006 Ando, Tadashi & Fuyuno, Yuki All rights reserved.  

Posted by 冬野由記 at 00:58Comments(0)音楽