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冬野由記
冬野由記
標高と緯度の高いところを志向する癖があります。そんなわけで、北国でのアウトドアや旅が好きになってしまいました。
旅の印象を絵にしたり、興が乗れば旅に携帯した笛を吹いたりすることもあります。

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2007年09月27日

男爵様コロッケ

 先日、クッキーママ様からお送りいただいたバロン様たち、まずは定番のコロッケになっていただきました。

 

 ただもう「コロッケ!」というだけの写真ですがご容赦を。
 なんせ、名にしおう男爵様ですから、ただもう「コロッケ!」で存在感はじゅうぶんです。

 味は?
 言うもおろか、語るもおろか。
 おいしいに決まっているではありませんか。

 子供の頃、私はコロッケが大の好物で、今も大好きです。
 小学校二年、三年の頃、母の大きなコロッケを晩御飯に8個たいらげるのが自慢?でした。
 だから、母は、コロッケを晩御飯に出すときは20個(翌日のお弁当の分もふくめると)揚げたものでした。今は8個も食べられませんけれど。

 え? 写真のコロッケが少ない?
 今晩の分は、もういただきました。
 コロッケは飽きないんですよ。

 クッキーママ様、ありがとうございました。

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Posted by 冬野由記 at 22:04Comments(12)料理、レシピ

2007年09月26日

郷里の食べ物屋さん

 一昨日の記事にいただいたjijii様のコメントにレスしたおり、ふと郷里の懐かしい食べ物屋さんや、いろいろなことを思い出しました。苦い思い出もありますけどね。

 レスに書いたのは、日明(「ひあがり」と読みます)というところで、高校生の頃よく通った(寄り道は感心しませんが・・・)蕎麦屋さん。「ひょうろく」という屋号でした。ここの天丼に蕎麦というのがお気に入りでした。天丼はちょっと変わっていて、小ぶりな丼に天つゆをちょっとまぶした海老天を載せてあるのですが、ご飯のほう、揚げ玉を載せて天つゆをかけた後、丼のふたをしてから逆さにして、一度つゆを切ってしまうんですよ。これが美味いんですね。「ひょうろく」今もあるんだろか。

 もひとつ、ある思い出があります。
 郷里には「J屋」という、天麩羅屋さんがありました。有名なお店で、かなり遠くからも食べに来るお店でした。小学生の頃、父に連れられて、この「j屋」で天麩羅を堪能した思い出があります。
 高い店ではありません。美味しい天麩羅をたっぷり、安く出してくれる、そんなお店でした。そもそも、天麩羅っていうのは、そういう料理ですよね。
 その頃、「j屋」はおじいさんとおばあさんが、ふたりで切り盛りしていて。おじいさんが厨房で揚げる、おばあさんが給仕をする。狭い店内はカウンターと、座れる畳の席があって、ちょうど蕎麦屋さんみたいな感じです。昼にはサラリーマンや遠方から食べ気に他お客で、すごい混みようでしたが、おばあさんが見た目はゆっくりながら、てきぱきと給仕をしながらお客を待たせませんでした。
 「海老天」
 と頼むと、こぶりな海老の天麩羅が、お皿に盛り合わせの形で出てきます。
 「野菜天」といえば、野菜の天麩羅盛り合わせ。
 ご飯と味噌汁は、おかわりし放題。
 たくさん食べても、ぜんぜんもたれませんでした。
 揚げ油に工夫があるらしく、とても軽く揚がるのです。後日聞いた話によると、店主であるおじいさんは、他所からやってくる人に気前よく揚げ方などを教えてくれたらしいのですが、油の配合だけは絶対に教えなかったそうです。
 私は、盛り合わせ、野菜天(これだって盛り合わせですけど)、そして海老天(の盛り合わせ)とどんどん食べました。もちろん、ご飯も味噌汁もおかわりしながら。
 海老天を食べて、ちょっと驚きました。
 殻が半分くらいむかずに残したままになっているのです。

 「殻が、はんぶん残っとうよ」
 私が父に問うと、
 「残っとんやないぞ。それが、あのじいさまの工夫なんや。食うてみぃ」
 尻尾ごと口に入れて噛むと、尻尾も殻もカリッと砕けて、香ばしいかおりと甘い海老の味が・・・
 「うまいなあ」

 わたしのような子供も含めて、客がおかわりをしながら、こんどは「これ」、それから「あれ」と、わいわい言いながら食べるのを、おばあさんは本当にうれしそうに笑いながら給仕をしてくれました。カウンターの向こうでは、小柄で痩せたおじいさんが黙々と天麩羅を揚げています。
 そういうお店でした。

 後年、大人になった私は、友人と郷里に戻った際に、なつかしくて、このお店「j屋」を探しました。

 「たしか・・・このあたりだったなあ」

 『j屋』

 看板を見つけました。たしかに、まだ「j屋」はありました。しかし、平日の昼間、昼休みの時間はちょっとすぎていましたが、それにしても妙に静かです。お店に入ると、一組が店内に残っていました。お店は心なしか少し広くなっているようです。そして、カウンターの向こうには、もちろん、あのおじいさんではなく、おそらくその後継者でしょう、中年の男が天麩羅を揚げていました。

 さて、何を揚げてもらおうか・・・とメニューを見ようとしたら

「すみません。昼は、天丼と天麩羅定食だけなんですよ」

 ずいぶんと、さびしくなったものだな。
 そう思いながらも「定食」を注文して、待っていると、入り口ががらがらと開いて女性と子供の声が。
 すると、カウンターごしに店主が言う。

「すみません。昼はもう終わりなんです」

 おかしいな。ぼくらは入れたじゃないか。

 店主は、その女性客が居なくなると

「子供連れは断ることにしてるんですよ。子供は食べ散らかすからね」

 私のテンションは一気に下がってしまいまいた。かつて、このお店の天麩羅を堪能していたころ、私はまぎれもなく、彼の言うところの「子供」だったのですから。

 出てきた定食は、何の変哲もない、どこにでもありそうな「天麩羅定食」でした。ただ、他の大衆食堂より高い。
 かつての「j屋」は、「安い」ことも売りだったのですが、いつのまにか「高級天麩羅店」になっていたらしい。

 私はなんだかさびしい思いで、「j屋」を出ました。
 あの活気に満ちて、いつも満員だったお店がなんだか静かになっていたわけも、もうわかります。
「j屋」は、ちょっと高いだけの、ありきたりな、それでいて店主が「職人気質」をきどっている嫌味な店に変じていたのです。
 まあ、こういう大衆のお店が、二代にわたって、その魅力とコンセプトを継承するのはとても難しいということでしょうね。

 あと、郷里には、客が選んだ伊万里やマイセンでおいしいコーヒーを飲ませてくれる素敵なカフェもあったのですが、今はないだろうなあ。引退後のコーヒー好きの趣味人夫婦が、ただ好きでやっているような洒落た店でしたから、彼らももうお店は続けてはいないでしょう。(元来、郷里の街にはカフェが驚くほど少ないのですが)

 もう帰る理由もみあたらないけれど、もし郷里に帰ったら、これらのお店は探さないことでしょう。
 探して、もし見つかっても、そこにあるのは、もはやそのお店ではない、そんなことになったら、ちょっとつらいですから。


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Posted by 冬野由記 at 23:15Comments(3)旅と美味

2007年09月25日

おぼろづき

 おぼろづき。
 今夜の月は、まんまるで煌々と輝いていますが、お月様のことではなく・・・
 お米です。

 クッキーママ様が、中秋の名月にふさわしく、北海道産の「おぼろづき」というお米を送ってくださいました。
 発売とともにすぐに売り切れる銘柄だとか。
 まだ味わってはいませんが、ねばりに特長があるとのことです。
 楽しみです。

 それから、月の女神のおともにバロン・・・男爵たち。
 立派な体格の、みごとな男爵です。

 

 クッキーママ様、ありがとうございます。


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Posted by 冬野由記 at 23:18Comments(2)徒然なるままに

2007年09月24日

やっと「秋」 風呂に浸かれるぞ!

 暑さ寒さも彼岸まで、と言いますが(この書き出し、ついこの間も書いたような気がする)ようやく本当の涼しさがやってきたようです。
 昨日から、夜は寒いくらい。
 週間予報を見ても、もう最高気温が30度を上回ることはないらしい。
 ただ、西日本は、まだ暑さが続くとか・・・西国は「彼岸過ぎ」てもまだ暑いのですね。
 まあ、とりあえず、関東は梅雨明けならぬ「残暑明け」というところですか。

 我が家は、初夏から、暑くなると風呂桶にお湯を張ることをやめて、もっぱらシャワーばかりになります。むかしから、母がそうしてきたので。
 そして、昨夜、このシーズン最初の「風呂」となりました。ついに、風呂桶にお湯を張ったのです。

 実は、慢性肩こりの私は、夏でも、ぬる~いお湯に浸かることを好むのですが、日々風呂桶を掃除する家人たちのことを思うとね・・・がまん、がまん。
 しかし、昨夜、ゆっくりとぬる湯に浸かることができたのです。

 「夏は終わりぬ」
 (SF小説ではありませぬ)

 風呂の復活こそ、我が家の夏の終わりを告げ知らすものなのです。
 秋が、秋がやってきたのです。


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Posted by 冬野由記 at 22:50Comments(9)徒然なるままに

2007年09月23日

三輪車

 少し大きくなってから、そう、小学校高学年の頃、幼い従兄弟の三輪車に
「お! ひさしぶり」
 と、またがってこいでみたことがある。

 ― あれ? 変だな。

 と戸惑うくらい、思うようにこげなくて、驚いたおぼえがある。
 何とか前に進むことができたとき、とても力が要って、こんなに重かったかなと首をかしげた。

 よくよく考えてみれば、
 ・車輪が小さい。
  効率が悪いわけだ。
 ・ペダルの長さと車輪の半径にそれほど差はないが、ペダルが当然短い。
  じかに車輪を回す以上の力が要るわけだ。
 ・チェーンがない。
  それなりのペースで進むには、ペダルを猛烈な速さで踏む必要があるわけだ。

 こんなものを、ぐいぐいこぎながら、暴走していたとは。
 子供の脚力はあなどれない。

 そういえば、山に登ったりすると、大人顔負け・・・というよりも、大人をはるかにしのぐペースで山を駆け上る子供をみかけることがある。大人が肩で息をしているのに、彼らは、大きな声で叫びあいながら、はしゃぎながら山を駆け上っているのである。
 そんな子供は、まず、幼稚園くらいかせいぜい小学校低学年だ。
 高学年や中学生になると
「しんどい」「たるい」「つかれた」
 という顔をして、たるそうに登ってくる。

 この急激な体力の衰えは、なんなのだろうか。
 走るのが当たり前で(歩くほうが難しい)、走っても走ってもばてない、息が上がらない。

 ああ、その体力を分けてくれぇ!


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Posted by 冬野由記 at 00:18Comments(5)徒然なるままに

2007年09月21日

「火垂るの墓」と父

 今夜、民放で「火垂るの墓」をやっている。
 高畑勲の力作アニメーションだ。
 ただ、我が家では、これまでの幾度かの放映でもチャンネルをこれに合わせることはない。

 名作である。
 映画は観にいったし、ビデオも購入した。
 原作の小説ももちろん名作なのだろうけれど、アニメーションとして、高畑勲の作品の中でも、ひときわ優れた作品だと思う。
 たんなる思い込みではないという証左がある。

 上映後、発売になったビデオをすぐに購入し、それを家族で観た。
 父は、食い入るように、それを黙って観ていた。
 そして、
「もう二度と観たくない」
 と言った。

 駄作だったからではない。
 作品に嘘や甘さがあったわけでもない。

「つらすぎる」

 とも言った。
 そして、父はこう言った。

「あれは俺だ。俺たちは、ほんとうにあんなだった」

 最後にこう言った。

「こんな映画が作ることができるなんて想像もしなかったよ。アニメと言うものがどんなにすごいものか、よくわかる。だから、もう観ることができない」

 父にとって、ただでさえ「つらい」というこの映画を、にぎやかで軽薄なCMをはさまれて、無残にカットされた姿で、私も観る気はしない。
 だから、我が家では、「火垂るの墓」にチャンネルが合わされることはない。
 それに、我が家にビデオはあるけれど、繰り返し観て楽しめる映画でもないのだ。
 映画館で、息をつめてこの作品を観た、そのことを大事にしておきたい。
 じゃあ、二度と観ることがないかというと、そんなことはない。
 いつか必ず、ビデオを再生機にかけて、観るときが来る。
 父を心の底から泣かせてしまった、この映画を。


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Posted by 冬野由記 at 23:29Comments(7)徒然なるままに

2007年09月19日

九ちゃん

 NHK蔵出しエンターテイメントで、久しぶりに坂本九に出会った。
 気さくな、というコトバがぴったりはまる、得がたい人だったなあ、とあらためて思う。

 番組(こども面白館)も、今となると新鮮だ。
 こんな、ほんとうに紙芝居みたいな画面だったけれど、皆、食い入るように見ていたものだ。
 今のTVは騒がしすぎる・・・と、こちらも歳をとったということかな。

 あの日、私は友人と八ヶ岳山麓のペンションに宿泊していた。
 朝早く起き出した幾人かの宿泊客と、ロビーのラウンジで
 「早朝、向こうのほうの山に、ずいぶん大きな雷が落ちたようだね」
 などと話していたら、ニュースで、それが落雷なんぞでなかったことを知った。
 ずいぶんと遠くのはずだが、それは八ヶ岳山麓までとどろいたのだ。

 番組を観ていたら、あの朝の驚き・・・衝撃が、突然よみがえってきた。
 TV画面の、あの屈託のない、心からの笑顔がなんともせつなくなった。

 こんなふうに思い出してしまう芸能人って、思えば、他には居ないなあ。
 今夜は、彼の歌声を聴きながら眠ることにする。


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Posted by 冬野由記 at 23:33Comments(7)徒然なるままに

2007年09月19日

暑さ寒さも(トリフィドの季節よさようなら)

 暑さ寒さも彼岸まで、といいますが。
 厳しい残暑が続いていたと思ったら、今日は朝からやけに涼しくて湿っぽい。
 昼過ぎには猛暑。
 日没後は急速に肌寒くなってきます。
 こういう気温や湿度の変化がけっこう身体にこたえますね。

 そうこうしている間に、昼間も蝉の声がしだいに影を潜めて、夜は秋の虫たちが静かに声を立てています。いまも、あちこちで「りー・りー・りー」「ちりりーん・ちりりーん」とやってます。

 花々も、夏のそれではなく、ちょっとこぶりな野草みたいな花が目に付くようになりました。

 夏の花といえば、向日葵と百合でしょうか。
 あのたくましくて、しっかり立ち上がって、大きな花をつけた姿は、やはり夏にふさわしいですね。
 鮮やかな美しさをほこる夏の花ですが、私は、ちょっと不気味な感じを受けることもあります。
 なんというか、人間のような存在感を感じるんですよ。
 他の花よりも、個の存在感というか意思のようなものを強く感じるのです。
 見ていないと、歩き出すんじゃないかというくらいの。

 かなり以前、栄養状態がよすぎたのか、庭にお化けのような百合が生えたことがあります。
 十本くらいの百合が合体した感じで、茎がくっついて太くなり、巨大な扇のように広がっているんですね。まるで南方の巨大植物という感じにぐいぐい伸びました。
 そして、夏のある日、それらのくっついた茎それぞれに、大きな白い、香りの強い花をいっせいにつけたんです。
 それは、もう私が知っている百合ではありませんでしたね。たしかに花は百合なんですが、大きいし、なによりも合体した百合というのが不気味でした。夏の夜、満月の光を受けて庭先であざやかな白い花をたくさん見せつけている、巨大な扇のような形をした合体百合。音を立てたら、こっちを向きそうな迫力でした。
 写真に残しておかなかったのが悔やまれますね。

 何かで聞いたのですが、百合の遺伝子構造の複雑さは植物の中でも随一で、それは人間なんかもおよばないほどのバラエティを持っているんだとか。もし、遺伝子構造の複雑さが生物の高等、下等を示すとしたら、百合はおそろしく高等な生き物、ということになりますね。

 ウィンダムに「トリフィドの日」という、高等化して人間を襲い始める植物たちの物語があります。私は、それらはきっと、百合か向日葵のような姿をしているに違いない・・・そんなふうに想像してしまうのです。

 とはいえ、百合は純潔。聖母マリアの象徴でもあります。
 こんなことを書いているけれど、百合も向日葵も大好きなんですよ。

 そんな強烈な存在感を持った花の季節から、さりげなく咲く花々の季節に移ります。

 暑さ寒さも彼岸まで。
 厳しい暑さも、今週いっぱいくらいでおさまることを願いつつ。


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Posted by 冬野由記 at 00:09Comments(5)徒然なるままに

2007年09月17日

母さんはアニメがお好き

 母が好きなTV番組。

 ひとつはサスペンスだ。
 二時間サスペンスは、ほぼ毎回観ている。
 あと、最近のシリーズだと「相棒」とかは、かかさず観ていた。
 それから、科捜研モノ。
 あの、犯罪の痕跡を、いろいろな実験道具や手法で調べるところが、たまらなく面白いらしい。
 「○○法」とか「○○による××分析」とか字幕が出ると、自分で復唱しながら「ふぅ~ん」という顔で食い入るように観ている。
 トリックもさることながら、犯人を少しずつ追い詰めてゆく刑事や探偵役の調査や推理のプロセスが面白いのだ。
 昔から・・・「七人の刑事」「乗っていたのは二十七人」といった頃から、サスペンスが好きなようだ。洋の東西も問わない。「ホームズ」「ポアロ」「マープル」「コロンボ」・・・etc.

 もうひとつ、母が、むかしから好きなのがアニメだ。
 ただし、条件がある。
 可愛らしくて、凛々しくて、元気がよくて、正義感の強い、そんな少年キャラが母のお好みである。
 それから、ある種の荒唐無稽さも好みだ。
 だから、アトムとかレオの大ファンだった。
 未来少年コナンは、ハンサムではなかったけれど、あの元気よさとひたむきさを母は愛している。
 目下の母のお気に入りは、もうひとりのコナン。探偵コナン少年である。

「どうみても体は小さいし、頭は大きいし、手足は細いし、ちんちくりんなのに、なんでマンガだとおかしくないのかしらねえ。かわいくて、かっこういいねえ」

 だそうである。
 それに、稚拙とは言いながら、このアニメはサスペンスでもある。それも荒唐無稽な!
 可愛くて(彼は実際は高校生なのだが、そんなことはどうでもいいのだ)凛々しくて、元気がよくて、正義感が強くて、その上
 「探偵さ」
なのだ。
 パーフェクトである。

 ちなみに、たまに野球中継でコナンが阻害されるときがあったりする。(NTVだから仕方がない)
 だから、母は「巨人」が大嫌いなのだ。
「今日は『巨人』が邪魔してる!」
 朝刊を見て、母がこんなふうに叫ぶことが年に数回ある。

 さて、今日は『巨人』ではないが、特番で『コナン』がない。
「今日は『変なの』が邪魔してる!」

 母は朝から機嫌が悪いのである。


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Posted by 冬野由記 at 18:49Comments(6)徒然なるままに

2007年09月17日

ピアノレッスン

 映画の話ではないので、念のため。

 今、BSでバレンボイムによるベートーベンのレッスンを観ている。
 以前、やはりTVで、ピレシュのレッスンを観たので、そのときの印象と比べながら観ているのだが、なかなか面白い。

 一言で言えば、バレンボイムのそれは頭から入る。考え、物語をつむぐように演奏を「組み立てる」ことを示唆する。
「構造」と言い、「シナリオ」という。
 すべての演奏上のパーツは、その構造に対する洞察と、シナリオの組み立ての上に位置づけられる。

 ピレシュの示唆は、いたって感覚的だった。頭ではなくハート、あるいは体感、神経に向かって示唆する。
 歩け、走れ、と言い、ときに「止まりなさい」と言う。
「立ち止まれ」と言い、息を止めてじっと見つめる。それからおもむろに呼吸をはじめる。
「そう。ちゃんと止まって・・・それから動き始める」
 それは、たとえばバレエやダンスのレッスンに似ている。

 バレンボイムのレッスンは、ちょうど教授の講義を聴いている、そんな感じがする。
 ピレシュのレッスンは、運動部か体操のレッスンのようで、身体を動かし、ときにスタジオの隅で座ってくつろぎながら、さっきまでのダンスを振り返りながら先生が手足を動かして見せる、そんな感じに見えたっけ。

 だから、バレンボイムのレッスンは聴講者から「もう少し詳しい説明を」と『説明』を求められ、バレンボイムは説明する。より詳しい物語を、シナリオを、哲学を。
 ピレシュは、反復させる。繰り返して、繰り返して・・・身体が納得するまで。

 面白いなあ。

 バレンボイムも、ピレシュも、若い頃、モーツアルトの演奏で盛名を得た。
 ふたりとも際立った技巧ではなく、音楽へのアプローチで存在感を示す名ピアニストである。
 でも、(あたりまえだけれど)ふたりの演奏はずいぶん違う。
 レッスンを観ていると、その演奏者としての違いもみえてくるから面白い。

 で、ちなみに、私は、ピレシュのファンである。


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Posted by 冬野由記 at 01:51Comments(2)音楽

2007年09月16日

ある「いじめ」事件 郡長正


「いじめ」は昨今の学校における重要な問題のひとつであるが、今に始まった話ではない。
 忠臣蔵にしても、ベテラン管理職の若手に対する執拗ないじめに端を発するのである。
「いじめ」というと、百年以上前のある痛ましい事件を思い浮かべてしまう。

 会津藩は維新のとき幕府方に義を貫いたおかげで、維新後は下北半島の斗南に移封されてしまった。
 しかし、もともと学問と教育熱心なことでは随一とも言われた会津藩である。新しい時代にも優れた才能を育てて雄飛させようと、会津藩は十代の少年たちをはるばる九州は豊津の育徳館という学校(小笠原藩の藩校)に留学させた。
 彼らは頑張った。それに優秀だった。
 しかし、なんといっても十代の少年たちである。今で言えば、中高生たちだ。
 ある年の初夏の一時期、育徳館が閉鎖され、館内は留学中の会津出身者だけが残ることになってしまった。
 そんなとき、ある少年が、おそらく寂しさや辛さもあったのであろう、泣き言を書いた手紙を郷里の母親に送った。そしてそれをたしなめた母の返書を、どうしたはずみか少年は落としてしまった。
 そして、それを学友たちに拾われてしまったのである。
 会津も小笠原藩もいわば敗戦国だ。その負い目もプレッシャーもあっただろう。なによりも「会津士魂」というプライドだけが彼らを支えていたのかもしれない。学友たちは彼をなじった。そして執拗な「いじめ」が続いた。
 異郷の者たち・・・豊津の者たちにいじめられたのなら彼も耐えたであろう。優秀な少年だったらしいし、学問を修めて郷里(くに)に帰れば、いじめはなくなるし、いずれ大きな働きをして見返してやるという望みだって持てたかもしれない。
 だが、かれの不幸は、彼をいじめたのが他ならぬ同郷の学友たちだった点にある。郷里に帰ってもいじめは続くだろう。それだけではない、彼自身に加えて母を含む彼の家、一族も蔑まれるにちがいない。逃げ道も、恥を雪ぐ道も塞がれてしまったのである。
 彼は、会津の篭城戦を指揮し、敗戦の責を一身に背負って死んだ萱野権兵衛の息子でもある。その誇りも彼を追い詰めてしまったかもしれない。
 後述のように、この事件は、豊津の藩校生たちが長正をいじめたように語られることもあるが、このとき藩校は閉じていたのである。
 その点からも、彼をいじめたのは、悲しいかな、同郷の同胞たちだったと思われる。
 ただ、彼らにしても、上に記したように極限状態だったに違いない。プライドだけがよりどころだった。しかし、長正少年は、そのプライドさえ仲間と共有することを断たれたのだ。

 1871年5月1日。少年は遠い異国の地で、切腹してその幼い命を絶った。幼くても武士である。恥を雪ぐにはもうこの方法しか残されていなかったのだろう。
 享年15歳。
 少年の名は、郡長正(こおり ながまさ)という。

 郡長正の名前と事件は会津と豊津(現在は福岡県京都郡みやこ町豊津)でしか、あまり知られてないかも知れない。
 それから、上記のいきさつについては、いろいろな説があって、実のところ真相は明らかでない。
 会津(すでに斗南藩)の立場からすれば、同じ会津の留学生たちのいじめで自殺に追い込まれたとすると大問題だ。
 一方、豊津の藩校の立場からすれば、学校の生徒たちのいじめによって自殺者を出したとしたら問題だ。
 だから、会津では「長正は、豊津の藩校生になじられたことを恥じて自刃した」ということになっている。留学生も後に帰国してそのように報告し「なぜ一緒に自刃しなかったか」と年寄から叱責を受けている。
 一方、豊津では「母の手紙云々」とは別に「長正が他の留学生と維新や小笠原藩のこと、ひいては会津戦争に関して激しい論争を行った末」という話も伝わっている。もともと萱野家の出であれば、そういう事態もありえない話ではない。
 このあたり、今日でも、学校で自殺者を出したりすると、いじめの実態や真相がうやむやになるのと同じだと感じずにいられない。
 だから、上の私の書いた経緯にしても、真相はわからないというのが実態である。豊津出身の父から聞かされた話ではこうなる、というに過ぎない。

 ただ、豊津の人々は事件を知り、少年の心情を哀れと思い、豊津の八景山南麓に少年の墓を建て、手厚く葬った。豊津の人々が長正を心から悼んだことだけは事実である。
 父が豊津中学(現在の豊津高校。今年「育徳館高校」に改称)の出身だったので、私はこの話をよく聞かされた。
 郡長正の墓は、その後も育徳館(当時の豊津高校)の学生たちによって、毎日手入れ、供養されてきた。半世紀前には「郡長正記念庭園」が造園され、今も大切にされていると聞く。

 在校中、父はこの長正の墓守の係りで、視察に訪れた陸軍の将軍を墓まで案内したことがあった。
 その将軍は、戦時下で食糧難の時期にもかかわらず、でっぷりと太っていた上に、酒に酔って眠そうな目をして、シャツをズボンからはみ出させ、腰に下げた刀を地面に引きずりながら歩く、いたってだらしのない男だった。(いまどきの中高生も顔負けの行儀の悪さだ!)
 その将軍の姿と態度に、父はいたく失望したそうだ。
 その後、ほどなくして、父自身が疎開先での迫害から逃れるように陸軍に志願、入隊することになる。
 父は14歳だった。

 そんな年頃の少年少女たちに、悲痛な思いをさせるような、そんな世の中にだけはなってほしくない。
 そんな年頃の少年少女たちの顔を見ながら、せつにそう思う。

 今夜、なぜか急に長正少年のことを思い出したので、思わず書いてしまった。

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Posted by 冬野由記 at 22:05Comments(0)徒然なるままに

2007年09月16日

痛くて怖い話

 昨日のニュースによると・・・

 南米ベネズエラでのこと。
 交通事故に遭った男性。かけつけた救急隊に「死亡」と判定されて、そのまま遺体安置所に運ばれた。
 医師が解剖にかかろうとしたところ、傷口から「出血」しているのを発見。
 ・・・・血が出てくるってことは・・・・もしや!
 医師が急いで応急処置をとったところ、意識が回復。

 本人いわく。
「麻酔なしで縫合されたので、痛さで気がついた」

 聞いただけで、痛くて、怖い話でした。


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Posted by 冬野由記 at 13:21Comments(2)徒然なるままに

2007年09月15日

栗ぜんざい

 今日の朝食は、遅めのブランチだったので昼食はパス。
 その代わりと言っては何ですが、おやつに、先日入手した栗を使ったぜんざいを。
 そう、栗です。
 今日もまた厳しい残暑が戻ってきてしまいましたが、こうやって食べ物をみると、季節は秋に移ってますね。

 

 栗と小豆をあっさりめの甘さで煮ただけです。
 冷やしていただきました。
 上に載せてある栗は、それとは別に、蜂蜜で甘露煮にしたものです。
 蜂蜜を使ってみたのですが、案外、砂糖で作るよりもおとなしい甘さになりました。

 夏の暑さがぶり返していますが、とりあえず、おやつは「秋」です。


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Posted by 冬野由記 at 15:46Comments(6)料理、レシピ

2007年09月15日

またまたカスクート

 またまた、朝食にカスクートです。
 見た目は前回とさほど変わりませんが、五日目のフランスパンにちょっと一工夫してみました。
 さすがに五日目ともなると、かなり風味は落ちていますし、固くなっています。
 そこで、
 まず切り込みをいれ、
 そこに牛乳を少したらして浸み込ませます。
 乾いているので、よく吸い込みます。
 それからオーブン・トースターで焼きます。
 つまり、焼いてから切るのではなく、切ってから焼くわけです。
 思い付きだったのですが、やってみたら、ほっこりと香ばしく焼けました。
 水ではなく、牛乳を含ませたのも成功。
 焼きあがったら、切り込みにアスパラガスのオムレツを押し込むだけです。
 これに果物とコーヒーがあれば、週末のブランチとしては十分。

 

 それにしても、冬野は、卵料理が好きなのですなあ。
 あと、乾いてしまったパンも。

 ・・・卵の摂りすぎにはご注意を・・・


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Posted by 冬野由記 at 11:21Comments(0)料理、レシピ

2007年09月15日

ご無沙汰です

 すっかりご無沙汰してしまいました。
 気がついたら五日も経ってました。
 自宅のネット環境の変更やらなんやらで、このところWWWめぐりも怠けてまして、かろうじてメールのチェックくらいで数日を過ごしてしまいました。
 予告する間もなく・・・申し訳ありませんでした。

 あいかわらず、とりあえず元気で生きてます。

 この五日のあいだにも、世間ではいろいろなことがありましたね。
 政治向きの話は置いておいて・・・

 大相撲がはじまりましたが、このところ相撲協会もなんだかおかしい感じです。
 いや・・・よく考えてみると、この四半世紀がよすぎたのかもしれません。

 栃若時代というと、昔の相撲ファンはほんとうに懐かしそうに振り返ったものです。
 もちろん、私はその時代を録画でしか知りません。
 彼ら、たしかに現役時代も、すばらしいライバルどうしだったのでしょう。
 でも、私には、引退後の彼らのほうが印象的です。
 春日野と双子山。
 協会という組織をまとめあげてゆく上での、このふたりの同志ぶりというのは、今思うとすばらしいものだったように思えます。
 春日野理事長以前に、協会が分裂しそうな状況だったという話も聞いたことがあります。
 春日野と双子山のふたりが、なにかと問題の多い協会や親方、部屋、力士たちをよくまとめあげていたということなのかなあ、と最近よく思うのですね。
 彼らは力士としても一級でしたが、組織のマネージャとしても(そして、二人でタッグを組むことができたからこそ、だと思うのですが)一級だったのでしょう。

 こういうコンビというのは、案外、大事です。
 たとえば、西武ライオンズの最初の黄金時代。
 かつて吉田義男がこんなことを言ってました。
「広岡が名将たりえるのは、彼の家の箪笥の中身まで知っている(もちろん喩えです)森が居るからだ」
 広岡がフロントと対立して球団を去った後、森は彼自身も名将であることを見事に証明しましたが、それほどの人が斜め後ろから広岡を支えていたわけです。
 春日野の斜め後ろでそれを支える双子山。
 そんな感じだったのではないか知らん。

 政治も同じでしょうね。
 会社の経営も。
 なんだって「独り」でできるものではないし、烏合の衆でもまずいわけですね。
 リーダーという立場の人は、ときに自分の斜め後ろを見て、自分に取って代わるほどの人がそっと背中を押してくれていたら・・・それはすばらしい状況だということになります。
 もっとも、そんな同志は、そうそうは見つけられるものではないかもしれませんね。だいいち、そんな人物に後ろを守らせる度量と、当のその人物に「おれは裏方が面白いんだ」という覚悟がなければ成り立たないわけですが・・・・

 堅い話はこのくらいにして、おもしろい看板を見つけましたよ。
 無断で掲載してしまいますが、まあ、宣伝になることはあっても被害はないでしょうから・・・お許しを。

 

 ふつう、病院の名称は苗字で済ませますよね。
 あえて「氏名」で押してくるところが面白いです。
 だって、この名前・・・・
 見つけたのが「今」という時だから、なおのこと気になります。
 怪物のような政治家、居なくなりましたね。


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2007年09月09日

チェロ弾きたち その10(ルネサンス 上)

 古楽演奏が、一種のブームを経て、今やクラシック音楽の世界ですっかり市民権を得ているようだ。
 多くの意欲的な音楽家が、古楽演奏に加わり、あるいは、そのエッセンスを各自各様に採り入れて成果を上げている。

 ただし、その意義や、古楽演奏の先駆者たちの意図を、彼らに続く多くの『古楽演奏家』や『古楽ファン』たちにはプロ、アマを問わず十分に理解されていないように感じることがある。
 いわく、

「バッハの音楽はバッハの時代に即した楽器と奏法で行うべきだ」
 ―― それが正しく、そうでないものは正しくない ――

 古楽復興の意味はそんなところにあるわけではあるまいに・・・

 古楽演奏のパイオニアたちは、どうして古楽に目をむけ、それをすさまじい執念で追求してきたのか。
 私にしても、思春期の頃、いろいろと聴いていて
 ―― モーツアルトは本当にこれでいいのか、
    バッハも本当にこれでいいのか ――
 という思いを抱いたことはある。
 だから古楽というのではなく、何かもっと工夫や発見があっていいはずだ、という思いだ。
 その手がかりを、たとえばアーノンクールたちは『その時代』に求めてみたのだと思う。復古が目的ではなく、新たな表現や彼らの想像力が求める手がかりを得ることが目的である。

 よく似た話をどこかで聞いたことがある。
 いわゆる『ルネサンス』だ。
 長く続いた中世という幽い、表現においてさまざまな制約が課せられた時代にあって、表現者たちの想像力や表現意欲があらたな自由を求めて『古代ギリシア』にその手がかりを『発見』した。復古ではなく再発見である。
 ―― 人間的な神々 ――
 というのは、彼らが発見したあらたな価値であって、古代ギリシアの観念でないことは明白である。じっさい、ギリシアの神々は世界の秩序を守るためなら、おそろしく冷酷に、そして苛烈に人間を足蹴にし、罰し、翻弄する。
「お前たちは、くだらぬ人間だ。思い上がるな」
 これこそが神々の主張だ。
 だが、ルネサンスの表現者たちにとって、古代ギリシアの神々は『人間的』でなければならなかった。

 では、古楽演奏のパイオニアたちにとって『長く幽い中世』とは何だったか。

 あまり指摘されないことかもしれないが、第二次世界大戦という大事件は、古楽運動の始まりにも大きな影響を与えていると思う。
 ご存知の方も多いと思うが、戦争をはさんで、欧州では演奏スタイル・・・いや、それ以上のものが大きく変貌してしまった。たとえば、ウィーン・フィルの演奏手法は戦前と戦後ではまったく違う。ちょっと変わったというレベルではなくコンセプトそのものが大きく転換してしまったのである。
 戦前のSP録音(復元)でウィーン・フィルを聴くと、その響きが信じがたいような透明感をもっていることに驚く。もちろん録音の古さとSPという方式の違いも考慮に入れる必要はあるだろうが、私たちがよく知っているウィーン・フィルは、むしろ独特の翳りを持った、ふっくらとした暖かい響きが特長だと感じていたから、それとは逆に透明でシャープな響きを聴かされて驚いたものである。
 後に知ったことだが、戦前のウィーン・フィルは『ノン・ヴィブラート』と『ポルタメント』を大切なコンセプトにしていて、だから、マーラーやR・シュトラウスの音楽はヴィブラートをかけずに、その代わりポルタメントを多用した甘い歌で奏でられていたわけだ。若いヴァルターのモーツアルトもそのように響いていたのだ。
 今、幸いなことに、わたしたちはノリントンたちによる『当時の演奏の復元を試みた』CDでそれを味わうこともできる。第一、私が最初に聴いたマーラーは(おかしなことに)ヴァルターが戦前のウィーン・フィルを指揮した第五交響曲のアダジェットだった。(おかげで、他のどの演奏も遅く、重く、もたれて聴こえるようになってしまった。ヴァルターと戦前のウィーン・フィルの所為である)

 何かの機会に聴いていただければわかると思うが、ちょっと演奏スタイルやカラーが変わったというレベルの変化ではないのだ。たった十年かそこらで、演奏がまったく別の時代と思えるほど、百年を隔てているかと思えるほど、だんだんとではなく、気がついたら変わっていたのだ。
 ヴァルターは最終的には米国に亡命した。ただ、その軌跡をみれば想像がつくが、どうしてもどうしても欧州から離れたくなかった、そんな人だったはずだ。でも、戦後、五十年代に歓呼の声に迎えられて、あの懐かしいウィーンに帰ってきた彼は、結局米国にとどまり、そこで生涯を閉じた。なぜだろう。もしかしたら
 ―― 戦争が終わって帰ってきてみたら、彼が知っていた欧州は、欧州の音楽は、そこには無かった。あるのはつらい思い出の残り香ばかり ――

 フランスでも同じようなことが起きている。私が大好きなパリ音楽院管弦楽団(コンセール・バトゥワール)は、戦後しばらくはその薫り高い『パリ』の音楽を続けていたが、六十年代に、発展的解消をとげてしまった。『発展的』に再編されたパリ管弦楽団には、もはや戦前までのパリの伝統は残されていない。アンドレ・マルローは、すぐれた表現者であり、立派な人だとも思うし、私は、彼の『空想美術館』という理念におおいに刺激を受けたものだが、文化大臣としてコンセール・バトゥワールのオーケストラを解散してしまったことだけは・・・お恨みもうしあげます・・・という気分だ。

 戦前から戦後にかけて、音楽を学び、羽ばたこうとしていた思春期の音楽家たちにとって、この『音楽の変貌』がどれほどの衝撃を与えたか。
 1929年に生まれ、戦前のヴィーンでチェロを学んでいたアーノンクールが、戦後ほどなくして、二十代の若さで古楽運動にまい進してゆくことになる、その理由として、つい十年ほど前に『正統』として学んだはずの奏法が、すっかり違うものにすり替わっていたことの衝撃があった、という想像は、あながち間違っていないような気がする。つい十年前の正統が簡単に失われるのだとしたら、もっと過去の奏法や音楽のなかに、はかりしれない表現のヒントが隠されているはずだ。
 そして、半世紀を経て、その衝撃は大きな果実を結ぶことになる。


『チェロ弾き』の話なのに、肝心のチェロ弾きが登場しないまま、続きになってしまいました。でも、そのチェロ弾きに触れるには、私なりの古楽演奏に対する受け止め方を述べておかねばならない気がしたので、こんな角度から入ることになってしまいました。
 と、ここまで書くと、次回あたり、誰が登場することになるか、チェロがお好きな方には想像がつくかも知れませんね。


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Posted by 冬野由記 at 10:43Comments(4)音楽

2007年09月07日

台風去って

 台風が去った。
 昨夜から今日の午前にかけて、ひさしぶりの激しい風雨だった。

 我が家の周辺は平地林がひろがっている。
 だから、家屋が風に直撃されることからはまぬかれている。
 我が家は、かれら(平地林)によって守られているのである。
 ありがたいことだ。
 秋が深まれば、林のあちこちに自生している栗の実もいただけるし・・・

 家の周辺の小路は、まるで襤褸絨毯を敷いたように、台風でひっかきおとされた木々の枝や、風になぎ倒された竹やなんかで覆われている。
 中には大きな枝や、立ち枯れかけていた木の幹なんかもあるから、大通りに出るまでの小道は、一応点検しておかないと、車での移動に支障をきたすのである。
 もっとも、これらの絨毯は、林が暴風を受け止めて、我が家を守ってくれた、その傷跡でもあるわけだ。だから、少々道をふさいでいるからと言って、文句を言うわけにはゆくまい。

 近隣の果樹園は、ちょうど梨の収穫期にあたっていたから、かなり損害を出したようだ。
 ただ、前半の収穫は終わっていたから、それが救いでもある。

 関東を去ったあと、この台風、東北と北海道に向かった。
 東北の梨の収穫はまさにこれからだから、大変だ。
 稲も、このあたりはおおむね刈り入れが終わったようだが、東北はこれからというところも少なくないだろう。
 以前の台風で、青森のりんごが軒並みやられたのを思い出す。
 北海道は大丈夫か知らん。

 秋は果物の収穫期。
 稲も刈り入れの季節。
 こんな時期に野分けをもたらすお天道様も、ちょっとばかり意地が悪い・・・
 ふとそんな気がした。
 お天道様のことは、人間にはどうしようもないが、たまには文句を言ってみるか。

 明日はまた暑さがぶりかえすらしい。


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Posted by 冬野由記 at 23:05Comments(5)徒然なるままに

2007年09月05日

呼吸困難の季節

 秋口である。
 はずなのに・・・昨夜から蒸し暑い。
 台風の所為ということもあるのだろうが、秋という季節は不安定なのも身上である。

 子供の頃、小児喘息で呼吸困難は年中おそってきたが、わけても激しかったのが春先と秋口だった。
 だから、むかしは、秋と春は嫌いな季節だった。

 小児喘息の原因については、医師もいろいろと調べ、あれこれ試してみてくれたが、なかなかわからなかった。だが、なんとなく、自分には「気圧、湿度」だという直感的な確信があった。

 高校の頃、小児喘息はすっかり治まっていたはずなのに、あるときひどい発作に襲われた。
 それは、なんと修学旅行のときだった。
 岐阜羽島からバスで黒部峡谷へ、黒部ダムを超えて能登半島に向かう途中、まさに分水嶺を越えて「日本海側」に入ったとたんだった。激しい発作に襲われ、私は皆と同じバスで移動することが不可能になってしまった。
 私は、看護師、医師、保健教諭を従えて・・・いや、守られて、黒い大型のハイヤーでバスのあとを追いながら旅行を続けた。
 奇妙な思い出である。
 秋の能登半島をめぐり、日本海側を南西へ向かい、京都に入るまで、発作は続いた。そして、京都でおさまった。

 社会人になって、友人と上高地にキャンプに出かけた。
 十一月初頭の上高地は、山上はうっすらと早い冠雪で化粧をほどこされ、冬枯れの衣装に着替える直前の木々が川べりにならんで、空気は澄んでいる。川原にテントを張り(昔のことだから)氷点下の夜の降るような星空を眺め、翌朝、山に登ることにした。
 朝、麓からみあげると、夜中に少し降った雪が山腹にきれいな直線を描いている。ちょうどそこから上が雪の世界。そこから下が乾いた冬枯れの世界。
 そして、山を登りながら、ちょうど木々の葉っぱにうっすらと雪が残っているあたりに来たとたん、呼吸困難におちいった。喘息である。
 まさに、そこから上が湿った雪の世界。下は乾いた世界。

 低い気圧と高い湿度。
 それが、私の喘息のキーワードである。

 だから、冬は私がいちばん快適な身体を持てる季節なのだ。
 あの、乾燥した冷気は、私には一番あっているのだ。
 あるいは・・・米国に出張したときは、異様に体調がいい。乾燥した空気がいいのだ。たぶん。

 今でも、この季節、台風がやってくると、接近の二日前あたりから息苦しくなる。
 秋は好きだが、秋口の気候は苦手である。
 息苦しいから。

 喘息というほどではないが、昨夜あたりから、いささか息苦しい。
 明日は台風接近である。
 乾いた、涼やかな季節が待ち遠しい。


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Posted by 冬野由記 at 22:22Comments(13)徒然なるままに

2007年09月02日

ふわふわ卵とブロッコリーのカスクート

 ひさしぶりに、今日の朝食から・・・

 名づけて「ふわふわ卵とブロッコリーのカスクート」

 (クリックするとポップアップして大きな画面でご覧いただけます)

 

 作り方はじつに簡単。
 手早く、手軽にできます。
 卵をいったん泡立てるだけ。
 あとは、具入りのスクランブルエッグを作るのと同じ。
 あっという間にできます。

 

 この状態でも、もちろん美味しいです。
「ふわふわ卵とブロッコリー、ソーセージのスクランブル」
 とでも申しましょうか。

 これを、フランスパンにはさむだけ。
 好みによりますが、一応、パンの切り込みの内側に薄くバターを塗っておくと、具のエキスがパンにしみこみすぎません。しみこんだほうがお好きな方はそのままで。

 それから、焼かれてから24時間以上経ったフランスパンの場合は、トースターで軽く加熱(焦げ目がつかず、表面が固くなる程度まで)してから使うとよろしいかと・・・フランスパンは風味の変化が早いので。


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Posted by 冬野由記 at 11:19Comments(10)料理、レシピ

2007年09月01日

夏の名残の

 庭の、夏の名残の薔薇

  

 元気よかったアブラゼミが仰向けに落ちている。

 

 庭の奥にでも、と思って触ると鳴き声をあげて少し飛んだが、また落ちた。

 そいえば、このところ、やかましいくらいだったアブラゼミの声はすっかり影を潜めヒグラシの声が目立つようになっていた。
 そのヒグラシの声も、今日は聞こえない。
 すっかり秋かな。

 今日から九月。

 風の音も変わった。
 夏は、サーッと吹き渡っていた風が、
 今は
「ざあああ」
 とか
「ざわざわ」
 とか言いながら、あっちの森や木や草を撫で付けながら走ってくる。
 湿気と、冷気を連れてくる。

 涼しさにおもむくから、気づきにくいけれど、この感じは梅雨とよく似ている。
 違うのは、一雨ごとに、ひと風ごとに、いよいよあたりが暗く、寒くなってゆくこと。
 同じなのは、雨風の季節が過ぎると、太陽の輝く明るいひとときがやってくること。
 ただし、秋のお日様は少し赤くて、木々も赤くて、
 空はずっと青くて、
 風が白い。

 そんな秋が、少し待ち遠しい、九月一日であります。

 本日曇天、小雨模様。
 風は、少々冷たい。


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Posted by 冬野由記 at 16:51Comments(8)徒然なるままに