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冬野由記
冬野由記
標高と緯度の高いところを志向する癖があります。そんなわけで、北国でのアウトドアや旅が好きになってしまいました。
旅の印象を絵にしたり、興が乗れば旅に携帯した笛を吹いたりすることもあります。

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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2009年07月28日

学力と得点力

 学力と得点力は別物です。
 そんなことは、教育現場にかかわっている人なら承知のことです。
 どんなテストにも傾向(出題の癖)というものがあり、それに応じた対策があります。学力が同じでも、試験に応える要領がよければ簡単に得点はアップします。試験対策が足らなければ、学力があっても、ちょっとした判断ミスや不注意で、ずいぶんと「得点」を損するものです。受験指導においては、本人の学力向上もさることながら、得点力を上げるための工夫もせざるをえません。逆に言うと、私たち(教員というもの)は、受験というシーンを除けば、基礎学力の向上や幅広い教養を身につけてもらうための授業やテスト(「考査」というのが、これです。考査ではなるべく「得点力」に左右されないような工夫が必要になります)に腐心しているわけです。しかし、受験となると、受験生に損をさせないためにも「得点力」を向上させるための「傾向と対策」にも配慮することになります。
 このように、得点力と学力は、まったく次元の違うものなのです。
 さて・・・

 もうじき今年の「学力テスト」なるものの結果がでるそうです。
 公表するとか公表しないとか、さまざまな混乱が生じています。
 もともと「学力テスト」ですから、学力の傾向をそれぞれの学校や自治体が分析して、今後の教育現場のために活用するのが目的・・・とまあ、こんなことは誰でもご存じ。
 この場合、テスト、つまり判定して次の対策を練るのは学校や地域、あるいは国であって、受験した生徒たちではありません。評定、つまり成績をつけたり順位を確認するするのが目的ではありませんから、正答率、つまり得点を生のまま公開することには何の意味もない、むしろ弊害がある。したがって、公表すべきは、分析結果・・・と、まあ、こういう理屈も誰でもご存じ。

 点数に着目してしまうと、どういうことになるか。
 点数を比較し始める人が必ず出てくる。他所と比べて、勝ったとか負けたとか言い始める人が必ず出てくる。
 そして「学力テスト」の分析によって教育現場にさまざまな対策が打ち出された結果として、成果をはかるために「得点が上がったか」に着目してしまう人が必ず出てくる。
 これらは「学力テスト」の間違った使い方ですよね。そんなことも、誰でもご存じ・・・のはずですよね。
 もっと得点を上げる、とか、次回は学力テストで○○市や○○校より高い得点を・・・とか、変な目標設定をしてしまうと、さらにおかしなことになってゆきます。「学力テスト」なのに、得点力の追求に奔ることになります。こういうことも、たぶん、多くの人がご存じ・・・のはずなんですが・・・。

 すでに、おかしなことを生徒に指示する教員が現場に出ています。
 「来週は『学力テスト』だからよく勉強しておけ」
 と指示したセンセイがいるそうです。
 ―― もっと勉強しなさい。
 と、そのセンセイに言いたい。
 試験勉強して受けさせた「学力テスト」には、もはや意味はない。試験対策されたからには、もう普段の学力ははかれないからです。
 知能テスト対策を経て受験した子供の算出されたIQに意味がないのと同じ。
 そうやって導き出された結果が、現場の傾向(よいところや反省すべきところ。課題や効果的な対策・・・などなど)を適切に映し出すはずもなく、反省や改善のヒントを与えてくれるはずもない。出てくるのは「向上したであろう点数」という自己満足だけです。このセンセイは、子供のことを考えていない。自分の生徒たちの「得点」がよかった、ということで満足、ないしは安心したいだけ(と言われても仕方ない対応でしょう)。

 行政は、学力テストの意義や適切な活用の仕方について、もっときちんと説明しなくては、誤解に基づく誤った使い方が広まって、結局「学力をはかれないまま得点力競争に火をつけた」テストに化けてしまいます。いや、もう、その兆候が出ているような気もします。学力テストがテストのおばけと化す。これこそ、学校の怪談・・・だなあ。  
タグ :学力テスト

Posted by 冬野由記 at 20:01Comments(0)徒然なるままに

2009年07月26日

むかしがたり「さかいのひめ」 その8

≪むかしがたり「さかいのひめ」 連載第8回≫


 ひめは、着物を裂かれ、その身体のいたるところに、ひどく殴打された生々しい痕が残っている。手足には火傷も負っていた。
 わかには、理由は分からないが、ひめの身とさかいの小屋に何が起こったかはすぐにわかった。むらびとたちが、小屋とひめを襲ったに違いない。そして、ひめの身体を抱き起こしたわかは、むらびとたちの暴力が、ひめの身体の表面だけでなく、その内奥にまで、とりかえしのつかない傷みをもたらしていることを知った。ひめの命は尽きようとしている。わかは、ひめをなんとか治療しようと思った。しかし、小屋は焼き払われ、貴重な薬草は採取できぬまま帰ってきた。このままでは、手の施しようがない。
 わかは、ひめを背負った。里へ向かうわけにはいかない。ほかならぬむらびとたちが、ひめの命を奪おうとしたのだ。北の山には、どうしたわけか薬草がない。わかは川筋に降りて、足を南に向けた。川に沿って川下のほうに向かえば、もしかしたら・・・。
 ところが、わかの背で、ひめが小さくささやいた。

 ―― 北へ。

 北? 北の山々もまた、命が尽きかけている。あそこには、ひめの命を救う手がかりはない。躊躇(ためら)うわかに、ふたたび小さく、しかしつよく、ひめが言った。

 ―― 北へ。

 わかは、ひめの導きを信じ、川に沿って北へ向かうことにした。
 月のない夜、星灯りを頼りに、風のない静かな夜道、ひめを案じて家路を急いだ道を、今は傷つき命の尽きようとしているひめを背負って、ふたたび北の山岳地帯に向かって歩いた。
 抱えたひめの身体のわずかな温もりと、耳元に感じるひめのかすかな息遣いだけを支えに、わかは憑かれたように、ただただ歩いた。
 東の空がわずかに白みはじめた頃には、すでにいくつもの峠を越えて、深い山懐(やまぶところ)に入っていた。やがて、小さくなだらかな丘にさしかかったとき、ひめの身体が急に重くなったように感じた。ひめの温もりも急速に遠のいていく。わかはうろたえ、背中のひめに声をかけた。すると、ひめがかすかにほほえんだような気がして、声が聞こえた。

 ―― ここに。

 わかは、ひめをそっと下して、横たえた。
 なんと荒れた丘。こんなところで、ひめに何をしてやれるというのだろう。

―― 続く ――  

Posted by 冬野由記 at 22:20Comments(0)短編小説

2009年07月24日

「怪奇日食」?

 先日は皆既日食の日でしたね。
 関東でも、お天気が良ければ部分日食は見られたのでしょうが・・・
 曇っていたし、忙しさにまぎれて、その時間帯もまったく日食を意識することなくやり過ごしてしまいました。

 そういえば、小学生のころ、子供向けの科学本の中にあった、日食の仕組みの説明で
 「かいき日食」
 と書いてあったのを、
 「怪奇日食」
 と、すっかり思いこんでしまったのを思い出しました。
 「皆既」なんて、小学2年生の持ちネタ漢字にはありませんでしたから。
 怪奇・・・・
 ・・・どんな日食何だろう。真っ暗になって、何が起こるのだろう・・・・。
 いろいろと想像をめぐらせたものです。

 ついでに、思い出したネタ。
 ひらがなで「うちゅうせん」と書かれてあったので、「宇宙船」と「宇宙線」の区別がつかなくて、

 「なぜ宇宙船が身体を突き抜けたりするんだろう。
  どこの宇宙船が大気圏を抜けて地上に降り注いでいるのだろう」

 などと、真剣に考察してしまったりしたものでした。

 やはり、漢字は大切だ。  
タグ :日食

Posted by 冬野由記 at 06:40Comments(3)徒然なるままに

2009年07月20日

スニーカーと蝶

 夏です。
 洗ったばかりのくたびれたスニーカーにクロアゲハ。
 スニーカーがたっぷりふくんだ水を吸っているのでしょうか。

   
タグ :クロアゲハ

Posted by 冬野由記 at 18:08Comments(2)徒然なるままに

2009年07月20日

むかしがたり「さかいのひめ」 その7

≪むかしがたり「さかいのひめ」 連載第7回≫


 わかは、このところ、ひめが奥の間にこもる新月の前後に、薬草の採取にでかけることにしていた。さかいの小屋を出て、西の川沿いに川上に向かい、ちょうど里を迂回するように北の山岳地帯に入る。西から入る道筋には、むらの近辺ではなかなか手に入らない珍しい薬草が手に入るからである。
 山岳地帯の西の一帯は、里人たちが炭焼きや山菜の採取のために入る、よくととのえられた南麓の森とはずいぶんと異なる相をしている。そこは、人の手がほとんど入っていない豊かな原生林で、さまざまな野生の棲みかであり、おさえきれない生命の衝動にはちきれそうになっている大地の胎(はら)である。
 しかし、今回の旅で、わかは異変を感じた。命に膨らみきっているはずの山が、妙にしぼんでいるように思われた。山に、いつでも湛えられていたはずの息吹が感じられない。現に、いつもなら何なく見つけることのできる薬草が見つからない。異変を感じるとともに、胸騒ぎをおぼえたわかは、予定を切り上げて急ぎ帰路に就くことにした。
 急いだといっても、かなり深く山に入っていたこともあり、さかいの小屋まであと数刻ほどというあたりまで戻った頃には、すでにすっかり日が暮れていた。川筋で一息入れて、ふと川下のほうに目をやったわかは、何かが異様に明るく南の空を染めているのを見た。
 さかいの丘で何か忌まわしいことが起きている。
 そう感じたわかは家路を急いだ。

 さかいの丘にたどり着いたわかが目にしたのは、いまだにくすぶり続ける焼け落ちた小屋の残骸。踏み荒らされたあたりの様子や、そこここに投げ捨てられた松明と得物が、小屋を焼いたのが他ならぬむらびとたちであることを示している。

 ―― いったいなぜ?
    何があった?

 わかは、まだかすかに煙をのぼらせている小屋の焼け跡に踏み行って、焦げて倒れた柱をどけ、燃え残った板をはがし、ひめを捜した。

 ―― ひめは? ひめは、どこだ? ひめは、無事か?

 ふと手をとめたわかの耳に、かすかに、細い、すすり泣く声が聞こえた。
 ひめだ。
 わかは、すすり泣く声をたよりに、小屋があった丘から川に向かって降りたあたりの草むらに駆け込んだ。
 草むらに、ひめは、ひっそりとその傷ついた身体を横たえて泣いていた。

―― 続く ――  

Posted by 冬野由記 at 00:01Comments(0)短編小説

2009年07月14日

臓器移植法に思うこと

 いわゆる改正臓器移植法が成立しました。
 いろいろなことを考えさせる法律です。

 臓器移植が、当事者の意思とは別のところで、法的制限によって行いにくくなっていたことが緩和され、本人同士の意思によって行えるようになった点については異論はありません。
 ただ、私は、法律に「脳死が人の死であることが一般的な認識」であるとうたうことの必要性が、いまひとつ納得できないでいます。「死」の判定についても、当事者の意思を尊重する、ということではいけなかったのか。

 そもそも「何をもって『人の死』とするか」ということは、法律や科学で議論する領域をはるかに超えているように思います。とはいっても、法律では、やむをえず「こうなれば『死』と扱う」という規定が必要になる場合もあるでしょうが、臓器移植法にそれが必要だったかどうか・・・私には釈然としない感じが残ります。
 「何をもって『人の死』とするか」は、哲学的、宗教的、そして個人的な領域に属します。それは、たとえば科学で説明、ないしは解明する対象ですらありません。科学は、現象や事象を説明、解明するものであって、意味を考える手段ではありませんから。法律も、事象を社会的に規定する、あるいは、何かあったときのために定義しておくものであって、やはり意味や価値を考える道具ではありません。
 そのあたりが、私の、なんとなく釈然としない感じの理由なのでしょう。

 この法律や、臓器移植(への関心も含めて)が広まってゆく中で、私がおそれていることがひとつだけあります。
 それは、「本人の意思」とうたいながら、一方で、もしかしたら、「臓器を提供する意思の表明」は「善い」行いであり、「臓器提供を拒む意思の表明」は悪いとまではいかなくても「善くない」「不名誉な」行いである、というような風潮が育ってしまわないか、という危惧です。
 「助かる命がここにある」というメッセージは、とても強力です。しかし、さきほども述べたように「何をもって『人の死』とするか」は、個人の宗教観や哲学によって、あくまで「個人的に」判断されるべきものです。つまり、

 もし、当人が「脳死は私の死ではない」と考えるとしたらそれは尊重されねばなりません。
 あるいは、当人が「たとえ誰かの命を救う手段として有効でも、臓器の提供は禁忌である」と感じているなら、それも尊重されねばなりません。

 もし・・・もしも・・・そんなことにはならないと思うのですが・・・臓器を必要とする人たちや、臓器提供を広めようとしている人たちが、
 「ここに助かる命がある。 それなのに、臓器提供を拒んだり、脳死に納得せず臓器提供を遅らせるのは、個人のわがままだ。 臓器は提供すべきものなのだ」
 と、主張するような時代が来るとしたら・・・わたしには、そんな空想は悪夢でしかありません。

 「命」の意味は説明不能なはずです。
 「命」の意味は、個人が感じとり、信じるしかないものだと、私は思うからです。

 ―― 念のため。
 私は、臓器提供の広がりに反対もしないし、賛同もしません。
 それは、当事者どうしの個人的な意思によって、つまり、提供する側の善意と、受ける側の感謝によってのみ行われるべきものだと信じているからです。その意思は、阻害されるべきものでもないと同時に、強いられたり推進されるべきものでもないと思うのです。
 ちなみに、私は、臓器移植の意思をすでに(保険証の裏に)表明しています。
 しかし、それを誰にも勧めたことはないし、誰に強いる気もありません。この意思表明は、あくまで、私自身の個人的行動であると考えています。  
タグ :臓器移植

Posted by 冬野由記 at 20:58Comments(2)徒然なるままに

2009年07月12日

むかしがたり「さかいのひめ」 その6

≪むかしがたり「さかいのひめ」 連載第6回≫


 ひめは、糸を撚(よ)っているでもなく、機を織っている様子もない。部屋のなかほどに横になっている。
 男は、ひめがもう仕事を終えて寝てしまったのかと、すこしがっかりするとともに安堵した。家を出るときには、なにやら怒りに似た思いに勢いづいて、このような夜更けに、ひとりで、さかいの小屋に忍び込んでしまったが、小屋に入ったとたんに畏れと後悔を感じていたのである。男は、このまま小屋を出て里に引き返そうと、引き戸に手をかけた。
 しかし、そのとき、男は何か異様な気配を感じ、思わず目を凝らした。
 ひめの息遣いが聞こえた。荒い息に、うめくような声が混じっている。とても寝息をたてているとは思えない。様子がおかしい。
 突然、闇の中に沈んでいたひめの影がおおきくうねったように見えた。ひめが喘いだ。

 男は見た。
 それは、男の想念の限界をはるかに超えていた。
 息をのみ、その場に腰を落とした男は、身じろぎひとつできなかった。やがて、全身が瘧(おこり)のように震えた。なんとか震える手で引き戸を閉め、小屋を這い出た。風のない夜の闇にさえ男は安堵し、ようやく息を吸った。それでも立ち上がれなかった。這いながら、さかいの丘を下り、なんとか里にたどり着いたときは、すでに東の空が白み始めていた。
 男は家には戻らず、そのまま、むらおさの屋敷の門を叩いた。使いが村を走り、明け方でありながら、寄り合いが召集された。
 男はむらびとたちに告げた。

 ―― ひめは、錦(にしき)を織ってなどいない。
    あの女は人ではない。あれは人外のものだ。
    おれは見た。
    あれは錦を・・・錦を産み落としていたのだ。
    おれは、たしかに見た。
    あれは、人ではない。

 寄り合いは、長くはかからなかった。

 ―― 今夜のうちに、ことを決すべし。

 その夜、松明(たいまつ)と得物を手にしたむらびとたちは、里を出てさかいの小屋を囲んだ。
 わかが戻ってくるのは明日あたりだ。今夜のうちに・・・。
 前夜と同じ月のない闇夜の丘を、強い西風が駆け抜け、松明が燃え上がった。

―― 続く ――  

Posted by 冬野由記 at 22:41Comments(2)短編小説

2009年07月11日

詩 一篇

 先日、高校文芸部の中央大会なるものが行われ、生徒を連れて参加してまいりました。
 県内の生徒たち180人に、引率の先生たちを加えると、ゆうに200人を超える人数が一堂に会した会場でしたが・・・
 なんと空調故障中とか。
 窓を開け放ったものの、蒸し風呂のごとき会場で、報告会、交流会、昼食をはさんで講演会と、生徒たちはよく耐えたなあ。
 午後の講演会は詩人による「詩」についての講演。
 内容は決して空虚なものではなかったのですが・・・なにぶん、午後の一番暑い時間帯に、満たされたお腹が睡魔を呼び寄せないはずもありません。
 最後尾の席に居並ぶ引率のセンセイがたも、いつのまにやら身体が前傾姿勢になり・・・
 かく言う小生も頭の中になにやら霧がたちこめてくるのを何とか振り払おうと苦闘。
 そのとき、
 「ああ。詩がテーマなんだから、なんとか詩をひねり出してみよう」
 と気づき、詩作にふけることで、なんとか乗り切りました。
 (後ろから見ていると、多くの生徒達もノート上のイラスト制作(落書きとも言いますが)で乗り切った模様。そう。文芸部員とはイラスト愛好会員とも同義であったりするのです。交流会というシーンも、コミケに近いかも・・・)
 で、そのとき、睡魔撃退のためにひねり出したのがこれです。
 忘れないうちにメモしておこうっと。


☆    ☆    ☆    ☆

「忘れた名前」

さきほど、ことばが
落ちてまいりました。
ことばが、この両の掌に
落ちてまいりました。
手触りとぬくもりに、なんだかおぼえがあったので
なにやらおぼえがあるのだがと、名を問うてみましたら
たしかにぼくの知っている名前です。
もうひとつふたつ
何かをたずねようとしたのですが
いつのまにか
ことばは消えうせてしまいました。
すると、たしかにきいたはずの
たしかにおぼえがあったはずのその名前も
ぼくはすっかり忘れてしまいました。
いつだったか、この両の掌に
おさまりきれないほどの
こぼれ落ちそうになるほどの
たくさんのことばたちが
次から次へと湧き出していたころに
手に負えなくなったかれらを
ぼくは、あの高い空へと
放り投げてしまったのでしたが・・・。
そんなわけで、今もぼくは
また、おぼえのあることばの誰かが
この両の掌に落ちてきやしないかと
あの空を眺めています。

☆    ☆    ☆    ☆



 おそまつ様でした。
 さて、明日は日曜日。
 連載第6回の準備をしておかなければ・・・  
タグ :文芸部

Posted by 冬野由記 at 23:07Comments(0)徒然なるままに

2009年07月11日

ひとこと

 なぜ教員に引率バスの運転などさせたのだろう。
 なぜ業者のバスをチャーターしなかったのだろう。
 大型免許を取得させて、
 激務の合間に、素人である若い教員にバスの運転をさせるなんて
 私には理解できません。
 運転しなれた自分の車だって100%安心とは言えないのに。
 こともあろうに、バスを運転させるだなんて。  

Posted by 冬野由記 at 20:24Comments(2)徒然なるままに

2009年07月06日

夜の散歩:蛍

 最近、ときどき、夜のウォーキング・ジョギングにでかける。
 このあたりは、ほんとうに田舎で、家を出たらすぐに平地林に囲まれた街灯のない小道で、しばらくゆくと、ぽつんぽつんと街灯がそなえられた農道ばかり。
 ときおり車が通り過ぎるが、陽が暮れてしまえば、歩いている人とはまず往きあわない。
 まことに静かな夜の散歩であります。
 今夜の天気は、曇り。ときおり雲間から月影があたりをすこしだけ照らすばかりで、いちだんと暗い夜道の散歩となりました。
 軽くジョギングしていると、右に雑木林、左に田圃というあたりで、身をくねらせながら道を林のほうへ移動するクチナワ殿(つまり、蛇ですが)が、わずかな月明かりに姿をあらわし、すぐ前を横切る。まだ若い蛇。なんだか、どっかのヌシの引っ越しのような気がして、立ち止まり、思わずパン・パンと手を叩いてしまいました。風のない夜、音があたりに響き渡る。
 下り坂、眼の前の田圃の一角に、何かちらちらと光るものが、ふんわりと浮かんだ。
 ああ、蛍だ。
 よくよくながめていると、同じ田圃に、ふたつ、みつ。数は少ないけれど、蛍がとんでいる。

 明日は、なにかいいことがありそうな。
 そんな、夜の散歩でありました。  
タグ :

Posted by 冬野由記 at 23:21Comments(4)徒然なるままに

2009年07月05日

むかしがたり「さかいのひめ」 その5

≪むかしがたり「さかいのひめ」 連載第5回≫


 むらびとたちは、わかに訊ねた。

 ―― あの見事な錦(にしき)は、どのようにしたら織ることができるのか。

 しかし、わかには答えようがない。
 ひめが奥の間に籠っている間、そこに立ち入ることを、わかは許されていない。
 しかし、そんなわかの答えに、むらびとたちは納得しなかった。

 ―― そもそも、さかいの者は、むらのために力を尽くすものではないか。
    われらは、金や珍物を欲しておるのではない。
    われらは、さかいの者どもに、ほどこされることなんぞ望んではおらぬ。
    美しい糸やよい織りかたの工夫がついたのなら、
    その技をむらにもたらすのが、さかいの者の役目ではないか。

 里の外にあって、よいものは入れ、あしきものはふせぎ、里を護ること。むらの内にあって、ひとびとの平安で豊かな暮らしを保つこと。それがさかいの者の役割であり、それを果たしうる力ゆえに、かれらは、なかば畏れられ、なかば尊ばれ、なかば忌まれてきた。
 しかし、今、商人(あきんど)たちは里に入らない。
 豊かな暮らしの種は、さかいの小屋に隠匿されたままである。

 ある新月の夜、ひとりの男が、里を出てさかいの丘に向かった。
 男は、錦の秘密を何としても探り出さなければならないと思い決めたのである。
 それは義憤だったかもしれないし、たんなる嫉妬だったかもしれないが、いずれにせよ、男はどうにも我慢がならなくなった。そして、畏れ、忌むべきさかいの地に、こともあろうに、月明かりを頼ることもできない闇夜を選んで、近づこうとしている。
 この夜を選んだのは、ひめが小屋に籠るのが、どうやら決まって新月の夜前後の数日らしいと聞きつけたからである。そして、その数日の間、わかは薬草の採取のため遠地に出かけることが多いらしい。
 かすかな星の灯りだけを頼りに、男は丘を這いのぼり、小屋にたどり着き、忍び込んだ。以前、むらを訪れた商人を迎えるために、むらおさに随って幾度か小屋を訪れたことがあるから、小屋の様子はだいたいわかっている。奥の間というが、引き戸一枚に隔てられているだけだ。
 引き戸の奥に、たしかに人の気配がする。
 男は、そっと引き戸に近づき、ほんの少しだけ戸を引いて、中の様子をうかがった。
 薄明かりの中に、横たわった女の姿がかすかに見えた。ひめだ。

―― 続く ――  

Posted by 冬野由記 at 23:45Comments(0)短編小説