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冬野由記
冬野由記
標高と緯度の高いところを志向する癖があります。そんなわけで、北国でのアウトドアや旅が好きになってしまいました。
旅の印象を絵にしたり、興が乗れば旅に携帯した笛を吹いたりすることもあります。

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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2009年11月30日

頭痛

 午後あたりから酷い頭痛。
 久しぶりだなあ。こんな激しい頭痛は。
 昨日、電車の中で、どうも鎮痛剤の広告が目につくと思ったが・・・関係ないか。

 いろいろと用事を済ませて、ぬるめのお風呂にしばらく浸かっていると、
 ふと、このところ読んだり聞いたりしたコトバどもが頭をよぎります。

 「世界が始まった時、人間はいなかった。世界が終る時も、人間はいない」

 「『今日、どんな服を着て出かけるか』とか、ファッション雑誌の『これを着て学校へ行こう!』という記事に向き合うためのセンスを磨くようなことを、学校の美術教育はしてこなかった」

 「作者の意図も、時代も、正しい方法なんてことも全て忘れて、自分たちが楽しむことだけを考えろ。最高に楽しむことを考えろ」

 etc.tec...

 今夜はもう寝よう。
 なんか、ややこしい夢をみそうだけど。  

Posted by 冬野由記 at 23:29Comments(2)徒然なるままに

2009年11月30日

テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その5)

《『サムソン』 その5》

 サムソンのかけた謎は、格別に難解であった。というよりも、客たちは、その謎に何か寓意めいたものを感じた。実際、この謎は寓意に満ちていたのだが、不幸なことに、このことがペリシテの客たちの知的好奇心と敵愾心をおおいに刺激してしまった。
 イスラエルの名族の嫡男であり、幼いころより「神に選ばれた子」として、いつかはイスラエルの民を率いる者として育てられてきたサムソンは、勇士というだけでなく、一流の教養人でもあった。婚礼の宴席における余興であっても、彼はその文化人としての素養を披露することを躊躇しなかったということである。さまざまな困難を退けて花嫁を得た喜びに酔っている若者が、自身の秀才をはばかることなく晒す危険を冒してしまったとしても、その思慮不足を責めるのは酷ではあろうが、いわばおふざけの余興にまともな問題を突きつけられた客たちはいささか鼻白んだとともに、この生意気な若者を少しばかり懲らしめてやりたくなった。彼らは本気で新郎の謎かけを解こうとしたのである。

 ――食らう者、強いものとは何か。食物、甘いものとは何か。

「ペリシテの高貴な方々。婚礼の間にわたしの謎が解ければ、上等な麻の衣と着替えを一着ずつ組にして、方々に贈ろう。解けなければ、慣習に従って、方々が、麻の衣と着替えを一着ずつわたしに贈ることになる」

 婚礼の七日間、客たちは智恵を絞ったが、これといった答えが導き出せない。なかば冗談として真剣さを見せて謎を論じていた客たちも、いつの間にか本気になっていった。気の利いた答えを導き出せない客たちの前で、新郎が勝ち誇ったような笑みを浮かべ続けていることも(笑みを絶やさず、落ち着いた物腰で客たちを遇し続けているのは、教養人サムソンの行儀のよさでもあったが)彼らの敵愾心に油を注いだ。いまや謎を解くことではなく、新郎をやりこめて散財させることが客たちの目的となってしまった。
 七日目、客たちはとうとう最後の手段に出た。謎を明かすように花嫁に迫ったのである。しかし、当の花嫁も夫となる人の出した謎の答えを知らなかった。そこで、客たちは、花嫁の耳にこんな毒を吹きこんだ。

「なんと、花婿は、これから一心同体となるあなたにさえ秘密を明かしていないのか? 彼は本当に、心の底からあなたを愛しているのか? そうだ。夫となる人の愛を確かめる好い機会にもなる。花婿から謎の答えを聞きだしてみよ。なあに、婿殿にしても、あなたの同族である我々から財産をまきあげることが本意ではあるまい」

 不幸なことに、この毒は効いた。実は花嫁もまたこの七日間、不安と不満を募らせていたからである。

――続く――
  

Posted by 冬野由記 at 00:46Comments(0)短編小説

2009年11月22日

テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その4)

《『サムソン』 その4》


 ペリシテ人がどこからやってきたかは、はっきりしない。彼らは、紀元前十三世紀ごろに海からやってきて、カナンの地中海沿岸に都市国家群を建設した海の民である。彼らの姿は、たとえば、ほぼ同時代に小アジアのエーゲ海沿岸に植民した民が建設した都市国家イリオス――トロイア――を想起させる。海の民であり、通商に長け、自然界のさまざまなものや現象に神性、あるいは霊性をみとめる。あらゆる霊性をおそれつつ、その機嫌をとることで御利益を得ようとする陽性で開放的な資質を持つ人々である。多神教と言ってしまえばそれまでだが、それは信仰というよりは、まじないに近いかもしれない。だから、彼らは祀りが好きである。賑やかで華やかな祀りが好きである。彼らは、最も重視する霊性をダゴンと呼び、牛をシンボルとして祀ることもした。(クレタ島のミノス文明の担い手たちも牛をシンボルとして祀り、明るく躍動的な文明を築いた人々であった)いずれにせよ、彼らもまた古代ギリシアやクレタと同様、古代地中海文明の活発な担い手であったろう。
 小麦色に焼けた美しい肌と、明るく大きな瞳を持った快活な少女からは、広大で光り輝く海の香りがした。サムソンは、その屈託のない少女の明るさを愛すると同時に、もしかしたら、同じ香りを放つペリシテの気風も愛したかもしれない。

 いよいよ婚礼の日、サムソンは少女の家があるティムナの街に向かう途中、ふと、先日引き裂いた若獅子の事を思い出して、あの葡萄畑のほうへ足を向けた。そして、獅子の屍のあるところに来ると、かつて若く力にあふれていたはずの獅子だったはずの亡骸は乾ききって朽ちており、蜜蜂が巣を営んでいた。サムソンの敵に相応しい、逞しく大きな身体を持ち、勇ましく猛々しかった獣の王の身体が、わずかな期間で小さな虫どもの宿るところとなっている。
 群れ飛ぶ蜜蜂は、サムソンの仕事を甘い蜜に替えてしまった。一瞬、サムソンは不快な心持がしたが、この蜜もまた、自分の戦利品なのだと思い直した。蜜蜂が獅子を倒したのではない。虫どもは、サムソンが引き裂いた獅子に宿を借りて蜜を集めたに過ぎない。であるならば、獅子を蜜に替えたのは他ならぬサムソンである。

 ――この蜜は、わたしの獲物だ。

 サムソンは獅子の屍から蜜を掻きとり、その蜜を父母や新婦の家族に贈り物としてふるまったが、それが自ら引き裂いた獅子の死骸から掻きとったものだとは言わなかった。そして、婚礼の宴に集まった新婦の親族たちに、宴会の余興として謎かけを申し出た。客たちが謎を解けば新郎はひとりひとりに贈り物をしなくてはならないが、謎が解けなければ客たちがそれぞれ新郎に贈り物をする。いわば、結婚の祝いに華を添える恒例の余興であり、謎は不可解で解けないに決まっている。新郎に贈り物をするのが目的なのだから。

 ――食らう者から食物が出た。強いものから甘いものが出た。


――続く――
  

Posted by 冬野由記 at 20:50Comments(0)短編小説

2009年11月22日

タモリ漬??

 通りがかりの看板。
 「タマリ漬」
 と毛筆調で書いてあるのを、
 「タモリ漬」
 と読んでしまった。

 言い訳のようですが・・・
 カタカナで書いてある所為です。
 「たまり漬け」とでも書いてあれば・・・。
 言い訳ですね。  
タグ :駄洒落

Posted by 冬野由記 at 01:32Comments(4)徒然なるままに

2009年11月21日

なんだか懐かしく


所用があって、出かけた先で見かけたので。

子供のころ、通学路にこの手の店があり、ガラスの向こうの奇妙なモノたちを、飽かず眺めたものでした。
それにしても、インド料理店が隣接しているのが、なんとも言えない味な景色。


  

Posted by 冬野由記 at 12:48Comments(4)

2009年11月15日

テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その3)

《『サムソン』 その3》


 

 イスラエルはペリシテの国に属していた。
 こういう言い方から、私たちが感じるのは、支配され抑圧された民族という図式である。しかし、古代から近世に至る中央アジアや西アジアの支配王朝というものの実際はどうだったのか。私たちには、東アジアやヨーロッパの歴史的センスで歴史を感じ取る癖が染みついているが、大陸の中ほどで行われて来た支配の様相は、私たちが知っているものとはだいぶ異なるらしい。たとえばアカイメネス王朝、ササン王朝と二回にわたって大帝国を打ち立てたイラン人の王朝にしても、その版図がすべてイラン一色に塗りつぶされたわけではない。帝国のもとで、それぞれの地域に、イスラエル人も含めたもろもろの民が、彼らの言語、彼らの宗教のもとで暮らしていたのであって「国」を滅ぼされたわけでも駆逐されたわけでもないのである。古来、西アジアや中央アジアに君臨した王朝は、域内の民族の自治に対しては寛容で、一種の間接統治であり、支配王朝は傘下の「各国」に対していわば収税権と全体的な司法権を行使していたにすぎず、実態は連邦国家と言ってもいい。理由はいろいろあるのだろうけれども、そもそも各王朝は、圧倒的支配ができるほど多数を占める民族や言語たりえなかったのである。宗教と言語という点に関して言えば、圧倒的多数を占めることができたイスラム王朝にしても、この地域を文化的に塗りつぶすことはできなかった。たとえば、長いイスラム支配(モンゴル帝国やオスマン朝トルコ時代も含めて)の間も、イラン人は一貫して現在のイラン国家が存在するホラサン地方に、彼らの文化を維持しながら割拠し続けた。
 ペリシテに属していたイスラエルの民にしても、彼らの宗教や独自の暮らしがペリシテ人たちから抑圧されていたわけではなく、ペリシテの覇権と収税権を認めさえすれば自分たちの文化や宗教を阻害されることなく暮らしてゆけたのである。もっとも、イスラエルの民は誇り高く、そもそもペリシテの支配地域は、神との契約の結果、いつかは与えられるはずの約束の地であるという想いがある。だからこそ彼らにとって、ペリシテの支配は「イスラエルの民の行状に下された神の罰――試練」だという説明が成り立つのである。ただし、イスラエルの民にもさまざまな考え方がある。ペリシテの支配を脱して自立し(それはペリシテに対する武力闘争、あるいは独立戦争を意味する)自らの国家を打ち立てるべきだと考える人々もいれば、試練の時が神の手によって解かれるまではこの状態を受け入れ、その時を待つべきだと考える人々もいる。どちらも、神の意志に従うという点では同じだが、神の意志のはかり方が異なるということになろうか。
 さて、サムソンは、奇妙なことに――とりわけ急進的な若者たちが、そういう想いを持っていたが――性急な独立闘争を叫ぶ側には与しようとせず、むしろ、ペリシテに対しては穏健な立場をとり続けた。ペリシテがイスラエルに敵対するような動きを示さず、イスラエルの誇りが害されない限り、現状の友好関係にひびを入れる必要はないと彼は思っている。だから、サムソンはペリシテの少女に恋をし、ペリシテ人たちも同族の娘がイスラエルの有力者に嫁ぐことを忌避しなかったのである。この婚約に嫌気を見せたのは一部のイスラエルの民だけであった。

――続く――
  

Posted by 冬野由記 at 22:20Comments(0)短編小説

2009年11月10日

「空想美術館」に想うこと

 アンドレ・マルローの提唱した「空想美術館」というものがあります。
 アンドレ・マルローは、フランスの異才です。作家、スペイン内戦の義勇兵、冒険家あるいは旅行家、レジスタンスの闘士、芸術批評家、そして政治家・・・。ことに、ド・ゴール政権下で長く文化相を務め、その間にさまざまな業績を残しましたが、高い評価を受ける一方、厳しい批判も受けている人です。(コンセール・バトゥアールを解散してパリ管を創設し、ミュンシュを初代監督に招聘したのはマルローですからね)フランスの異才と言えば、つい先日、レヴィ・ストロースが亡くなりました。(私にとっては師匠の師匠の友人にあたる人になるので、ストロースの死には若干の感慨があります)マルローにしてもストロースにしても、実にバイタリティ溢れる文化人でしたね。
 話が少し逸れましたが、マルローが、テレビ番組の中で、彼の提唱する「空想美術館」について熱く語るのを、ずいぶん昔(30年以上前。私はまだ少年でした。)聞いたことがあります。そのときの印象はとても強く、以来、私が芸術に触れる上での大きな指針のひとつになってしまったと言えるかもしれません。とはいえ、彼の「空想美術館」について深く調べたり考察したりしたわけではなく、そのとき聞いた言葉や彼の様子にインパクトを受けたままにしてあるので、私の理解は、もしかしたら間違っているかもしれませんが。
 「空想美術館」というのは、ひとりひとりが頭の中に自由な展示を行う美術館を持つ・・・と、言葉でいえばそういうことです。私は今「こと」とか「もの」という曖昧な名詞を使っているのですが、これを概念とか思想とか呼ぶのは、なんだか違うような気がしているのです。もっと現実的で具体的なインスピレーション・ツールのような気がしています。
 「心の中に美術館を持つというだけなら、何ということはない。そんなことは自分だってやっている」と思われる方もいるでしょうね。問題は、この「自由な展示」ということです。美術が好きな人は少しばかりは美術史を勉強してしまっていますし、好きな画家がいれば、その画業や影響を受けた芸術家、彼を啓発した作品や事件・・・といったものに興味を持ち、知らず知らずのうちに学んでしまいますよね。そうでなくても、たとえばゴッホのファンになったらゴッホのいろいろな絵をといった具合に、作家の何れかの作品に印象を受けたら、その作家のほかの作品も観てみたくなる。つまり、愛好家というものは、あれこれと知らず知らずのうちに体系的な観賞をしてしまいます。一方、その分野の門外漢が何かのきっかけで美術品を観たときに、ふと漏らした感想などに目を開かれる思いがしたという経験を持つ人もいるでしょう。
 その番組で、マルローが例として、こんなことを言ったのを今でも覚えています。

「たとえば、ゴヤの描いた婦人像の横に、私なら日本の浮世絵の婦人像を並べます」

 美術史や知識を破棄して、芸術を観た印象やそこから得たインスピレーション(霊感)を妨げず、自由に観賞する。そのためにはイマジネーションの中に、物理的な束縛も時間的制約も乗り越えた美術館が必要なのだと、彼の言葉を、私はそんなふうに受け取りました。展示場所だけでなく、たとえば作品の大きさも束縛要因になります。心のギャラリーになら、大きな作品と小品を同じインパクトで並べて見せることもできます。同時に観ることが不可能な作品だって、現実の世界にはあります。彼が写真や出版物による観賞も(今、彼が生きていれば当然コンピュータやウェブ上での観賞も含めていたでしょう)重視した理由はこのあたりにあるのだろう、などと勝手に納得しているわけです。
 私は、たとえばデューラーの描いた狩の獲物の絵(つるされた鳥を描いた絵。高校生のころ観たのですが、タイトルは忘れました。)と、高橋由一の「鮭」が、30年以上頭の中で並んでいます。この二枚は、私にとっては、いっしょに並べて観賞すべきものなのでしょう。理由はあるはずですが、それは私の中にあるのであって、根拠を探ろうとする試みはこの場合無意味と言っていいと思います。美術史的にも、おそらく技法的にも体系づける必要はないし、できないのです。あるのは、同じ美がこの両者には宿っているという事実(あえて「事実」と書きましたが)と、その事実を覗く窓を、私がある日開けたという記憶です。

 さて、「空想美術館」があるなら「空想音楽会」があってもいいわけです。もちろん「空想図書館」も。次回からは、そんなことも考えながら音楽や文芸のことも書き進めてみたいと思います。  

Posted by 冬野由記 at 23:09Comments(0)徒然なるままに

2009年11月09日

理想の人生

 先日、ラジオでこんな話を聞きました。もっとも、ラジオで話していた人も何かの本で読んだか、誰かから聞いたかしたらしいので、この記事は孫引きもいいところですが・・・

  理想の人生というのは、
  やりたいことを思うさまやったら、
  それが誰かのためになってしまう、
  そんな人生だ。

 ある程度は、誰しも、そんな人生を送ることができるものだと思いますが、どこかで、自分のわがままと人の幸せのバランスをとらないと、なかなか立ち行かないものです。
 ――思うさまやったら、それが他人のためになってしまう。
 この「なってしまう」というのが理想なんでしょうね。

 「愛」というのは、この理想をある局面で実現していると言えそうですね。
 『その人のためにあることが自分の幸福そのものである状態』
 これは、覚えのある方も少なくないでしょう。
 で、これを
 『自分の幸福の追求が、その人のためにあることになる状態』
 というふうに位相を転換することができれば、理想が達成できるということなのでしょう。
 こいつは、なかなか難しい。
 さらに、「その人」を「みんなの」にまで持ってくることができれば・・・・
 「自身の幸福の追求が、万人のためにあることになる」
 こうなると、神様仏様の領域でしょうか。
 神仏とは、理想の人生を体現している存在、ということなのかなあ。  

Posted by 冬野由記 at 22:07Comments(0)徒然なるままに

2009年11月08日

テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その2)

《『サムソン』 その2》


 サムソンの婚約が揉めたのには、もうひとつ理由があった。サムソンは名門の出である上に、その雄偉な身体と、それに相応しい超人的な強さ、義に厚く情の深い性質が、多くのイスラエルの民――わけても若い世代――の人気と人望を得ていたのである。人々は、彼が、ゆくゆくはイスラエルの民をたばねるか、そうでなくても部族を率いることになると期待していた。
 当時のイスラエルの民は、いくつもの部族に分かれており、部族間の諍いも絶えなかった。当然、イスラエルは、ひとつの「国」としてまとまるほどの結束を持ち得なかった。国家とは利害の器であり、調整機関である。彼らをたばねうるのは、同じ神を同じ言葉で信仰しているという宗教的連帯のみであり、部族間の利害はむしろ常に衝突した。こうした状況――国を持てず王も頂けず、異教徒の国に属して暮さねばならない――を、彼らは「主の目に悪とみなされる振る舞い」によって民族に課せられた試練とみなしていた。したがって、部族の壁を越えてイスラエルの民をたばねることができるのは、神の御心に適い、民の教導を神から委ねられた者だけである。このような部族間の調停者たる資格を神から与えられた者を彼らは「士師」と呼んだ。士師は一代限りのものだし、いつ、どのように現れるかもしれない。もとより国という統治機構を持たないのだから、士師は王ではないが、イスラエルの民を統括する。そして、サムソンは、まだ若いがいつか士師となるかもしれないと嘱望されていたのである。以下の逸話は、なかば伝説として、なかば事実として人々の間に流布していた。そのことからも、イスラエルの人々がサムソンにかけた期待の大きさがわかる。
 サムソンの父マノアはダン氏族に属する。マノアの妻は不妊とされ、彼らは長く子を授からなかったが、ある日、主の御使いが現れてマノアの妻に告げたというのである。
「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」
 彼らは、その後、お告げの通りに男の子を授かり、サムソンと名付けた。そして、お告げの通りに、サムソンはその髪を刈ることを決してしなかったので、風になびく豊かで長い黒髪は、彼の標(しるし)となった。
 そんなサムソンが異教徒から、それも、支配民族であるペリシテ人から嫁を迎えることに、彼に期待を寄せる多くの民が反対するのは、むしろ当然の事だ。

 この当時、今から三千年ほども昔、今のパレスチナのあたりを統べていたのはペリシテ人と呼ばれる人々だった。ご存知の方も多いと思うが、そもそも「パレスチナ」という今日の呼称じたい「ペリシテの土地」という意味で、ずっと後になってここを支配することになったローマ人が、イスラエルの民が住む一帯を(おそらくは、ある種の嫌味も込めて)こう名付けたことに由来する。ペリシテ人の支配が長い間続いたこの地域が、彼らから見てもペリシテ人の土地と認識されたのかもしれない。

――続く――
  

Posted by 冬野由記 at 22:34Comments(0)短編小説

2009年11月07日

天才と秀才

 高校生のころ、何の科目だったか忘れましたが「天才」と「秀才」について、教科書に狩野一族(狩野派の狩野です)の系譜をたどりながら、天才と秀才の色分けがされている個所がありました。どうも、「天才」と「秀才」が優秀さの程度で色分けされているような感じがして、なかなか納得できなかったものでした。

 以前、ある友人が
 「モーツアルトは天才で、ベートーベンは自分を天才と思い込んで苦しんだ秀才だ」
 というようなことを言ったのを聞いて、やっぱり納得できませんでした。ベートーベンはあきらかに天才だと思ったからです。むしろモーツアルトの方が「天才」というよりも「超秀才」なんじゃないか、と思ったりしたものです。

 私は、天才と秀才は、程度の違いではなく、発想の型の違いだと思っています。そして、誰もが、このどちらかの型にあてはまる・・・と言うのが極端なら、どちらかの傾向を持っていると考えています。誤解を避けるために「天才型」「秀才型」と言うようにしましょうか。

 以前、山岡荘八の「武田信玄」を読んだら、「天才」と「秀才」を説明するこんな面白い行(くだり)がありました。
 ちょっと長いけれど、自分としては納得がいったので、ごくおおまかに紹介してみます。

 越後の謙信の動静を探りに行ってきた山本勘助が信玄に報告している場面です。信玄が謙信の人となりを質問すると勘助が
 「謙信は天才です」
 と答えます。続けて、
 「おそれながら御屋形様(信玄)は天才ではなく秀才です。ただ、まずいことに謙信は、お屋形様を『天才』だと思い込んでいて、敵愾心を燃やしているのです」
 と報告し、信玄の「『天才』と『秀才』はどうちがうのか」という質問に、こんな答え方をします。
 まず、信玄に「1から10までの数を足すといくつになるか」と問うのです。
 信玄が素早く計算し「55だ」と答えます。
 以下、ふたりの問答がこんな具合に続くのです。(言葉遣いなどは正確ではありません。念のため)
 「お屋形様はどのような計算をなさいましたか?」
 「1から10まで順番に足していっただけだ」
 「私ども諜者は素早い計算を訓練で身につけています。お屋形様もおどろくほど計算がお速い。ですが、計算の方法は、普通の者と同じで、人並み外れて速いというだけです」
 「謙信は違うのか?」
 「同じ問いに謙信公は瞬時に正解なさいました。同じように計算方法をうかがったところ、こうお答えになりました・・・」

 ――10の真ん中は5と6だ。5と6を足せば11。11を5倍すれば、1から10までの数を足したのと同じことだ。計算するまでもない。

 「才能と訓練で常人の能力を超えても、常人と同じ方法で答えを出すのは秀才です。しかし、天才は、謙信公のように、常人が思いつかない方法で答えを出してしまうのです」

 紹介が長くなりましたが、この説明はよくわかります。
 ですから、天才型が秀才型を超えるとは限らないのです。変な言い方になるかもしれませんが、鈍い天才は、すばらしい秀才におよばないことだってあるわけです。凡庸な天才もいれば、超秀才もいる。

 日常のことでも、よくあるでしょう。
 たとえば、ベランダが思ったより広く、物干し竿が届かない。
 A:「この竿じゃ短くて届かない。明日、長いのを買ってこよう。」
 B:「2本使ったらいいじゃない」
 A:「2本結んでつなぐって言うんだろ。2本じゃうまくいかないよ。3本ならまだしも」
 B:「そうじゃなくってさ・・・いいから紐持ってきてよ」
 A:「2本じゃ安定しないって。無理だよ」
 B:「いいから、持ってきて」
 A:「どうせダメなんだから・・・ほら。紐だよ」
 B、竿を1本ずつ斜めにベランダの手すりに結び付ける。
 ちょうど、2つの橋を斜めにV字に渡したかっこうになる。
 B:「こうすればいいじゃん。2本分とはいかないけど、1本半分の洗濯物は乾せるよ」
 A:「・・・・・・・・・」

 Bのようなのを「天才型」と呼びましょう。Aの秀才型は、セオリーからはずれる発想を持ちにくい。Bはセオリーは初めから頭にありません。斜めに渡せばいい、といきなり思いついただけです。それを説明するのも面倒で「紐、もってこい」となったわけです。Bにとっては、解決さえすればいいのです。Aは手順や段取りを大事にするタイプです。何事も経験の延長でイメージします。この局面(物干し竿短い事件)ではBが勝ちましたが、さて、いつもこうとは限りませんね。Aは手堅いのがメリットです。別の言い方をすると、天才型は、頭に迂回路を持っているわけです。運転でいうと、渋滞していればすぐに脇道に飛び込む感じですね。でも、一般的に・・・そういうときに知らない迂回路に飛び込むと怪我も多いわけでして・・・素直に渋滞が解消するのを待つ方が結果的にはあまり怪我をしない、ということを経験的に知っているのは秀才型です。

 さて、あなたは「天才」ですか? 「秀才」ですか?
 みんな、どらかの傾向はお持ちだと思いますよ。
 ちなみに、私は・・・・
 やめておこうっと。  

Posted by 冬野由記 at 22:13Comments(2)徒然なるままに

2009年11月05日

昔聞いた洒落た駄洒落

 昔、何かで聞いた(つまり、わたくしのオリジナルでも、じかに見聞きしたのでもないのですが)洒落た駄洒落を、ふと思い出したので。

 昔、こんなキャッチコピーがありましたよね。
 (今は、絶対に使えないコピーです)

 『今日も元気だ。タバコがうまい』

 このコピーが書いてあった看板に誰かがいたずら書き・・・というよりも、ある個所を消してあったそうです。
 すると、こうなりました。

 『今日も元気だ。タバコかうまい』

 「が」の濁点を消してみた人があったわけですね。

 『今日も元気だ。タバコ買うまい』
 と読めますね。

 うまいですね~。お見事ですね~。
 こういう洒落たいたずら、最近はあまり拝見いたしませんね~。
 それでは、みなさん。
 またお会いしましょう。
 さょなら、さょなら・・・。
 (記事を書きながら、あの懐かしい顔が浮かんだので)  

Posted by 冬野由記 at 23:44Comments(3)徒然なるままに

2009年11月02日

?作り味噌??

 新しい通勤路の途中に、小さな田舎の駅の脇に踏切があって、そこを渡ると、曲がりくねった狭い路沿いに、少々古い街並みが続く一角があります。
 そこに「?作り味噌」と大きく書かれた看板がかかっている味噌屋さんがあるのですが、毎朝この看板をみるたびに

 『子作り味噌』

 と読めて仕方がない。
 もちろん、

 『手作り味噌』

 と書いてあるに違いないのですが、この看板、手書きでおおぶりな毛筆風なので「手」の字が読みにくい。
 最初にみた時、咄嗟に『子作り』と読んでしまい

 ――どういう味噌なんだあ???

 と一瞬思ってしまった所為か、毎朝、この看板が目に入るたびに

 ――ああ『子作り味噌』ね。
   はいはい・・・っと、違った。
   『手作り』ですね。

 を繰り返しているのです。
 頭では『手作り』とわかっているのに、目が『子作り』と反応してしまう。

 『子作り味噌』

 我ながら、発想が奇抜ではありますが・・・
 どんな味噌なんでしょうな。
 おい、私!
 教えてくれたまえ。  

Posted by 冬野由記 at 22:22Comments(4)徒然なるままに

2009年11月02日

テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その1)

《『サムソン』 その1》


 風が吹き、砂塵が舞う。
 その砂塵の向こうから彼に向って、何かしら大きく強い敵意が襲ってきた。
 もちろん彼は怯まない。
 襲ってきた敵意の十分な大きさと強さに、むしろ彼は奮い立った。
 何かが彼に降りてくる。
 彼の肉体と怒気がみるみる膨らむ。
 それは襲い来る敵意をあっという間に呑みこんだ。
 気がつくと、彼の足もとには、彼が引き裂いた若い獅子が横たわっていた。

 いつもそうだった。
 彼の力の根源は怒気だった。怒気は敵意によって沸き起こる。そして、いつも何かが彼に降りてくる。その何かは、彼の怒気をいっそう膨らませ、怒気は力となって肉体に注ぎこまれる。
 彼は、その何かを神が注いだ霊力だと信じている。
 だから、彼は、敵意をみせる者には容赦ない。彼が怒気を膨らませるのを神が助けて下さるのだから。怒り、敵を引き裂くのは、神の御心に適っているのだから。
 一方、彼は、彼を愛する者には情け深い。その愛に応え、彼も一心に愛を注ごうとする。神が彼を愛するように。
 彼の名はサムソンという。二十歳そこそこの若者である。

 サムソンが獅子を引き裂いたのは、愛した少女に婚約を申し入れるために、両親を伴って彼女の家におもむく途上のことである。両親たちから離れ、近くの葡萄畑に立ち寄ったところを獅子に襲われたのだが、彼はあっさりと獅子を引き裂き、その手を獅子の血で汚してしまった。もっとも、そのことを彼が悔いることはない。神の霊力はちゃんと彼に注がれたのだから。
 ところで、この婚約はかなり揉めた。サムソンは街で見かけた少女に一目惚れし、少女も、この逞しい上に、この上ない優しさを見せる若者を愛した。ところが、少女がイスラエルの民でないばかりか、ペリシテ人であったため、両親は言うに及ばず一族の者たちは彼らの結婚を許そうとはしなかったのである。
 しかし、少女が彼の愛に応えた以上、彼は一途な愛をこの少女に注ぐ。そして、彼らの愛の成就に障害となるものは、サムソンにとって敵意となる。
「私は彼女を愛し、彼女も私を愛しています。私が妻として迎える女は他にはいません」
 口をそろえて反対し、難じた一族の者たちは、サムソンが怒気をはらんだ目で父親にこう言ったとき、この婚約を認め、祝福の言葉を贈るしかなかった。この若者の怒気のすさまじさを知らぬものはない。

――続く――
  
タグ :サムソン

Posted by 冬野由記 at 00:31Comments(0)短編小説