2007年12月31日
賀正(ちょっと早いけど)
頌春
旧年中はありがとうございました。
今年、2008年もよろしくお願いいたします。
二〇〇八年正月
この子の名前はナヴィ。あたしを守ってくれる十二の精霊のひとり。
いつも行列の先頭を進んで道案内をするのが役目。
行きたいところをきちんと伝えれば、道を誤ることはない。
でもね。
どこに行きたいか、はっきり伝えなければ、
食いしん坊で、女の子とダンスするのが大好きで、
あっちに行ったり、こっちで騒いだり・・・ただのお気楽ネズミさん。
だから、あたしがちゃんとしないとね。
子年は十二支の最初の干支。
というわけで、これから十二年間、新しく出直すつもりで、
賀状も新シリーズを始めることにしました。
この調子で、2009年も2010年も書くことになってしまった・・・ようです。
皆様、よいお年を!
旧年中はありがとうございました。
今年、2008年もよろしくお願いいたします。
二〇〇八年正月
この子の名前はナヴィ。あたしを守ってくれる十二の精霊のひとり。
いつも行列の先頭を進んで道案内をするのが役目。
行きたいところをきちんと伝えれば、道を誤ることはない。
でもね。
どこに行きたいか、はっきり伝えなければ、
食いしん坊で、女の子とダンスするのが大好きで、
あっちに行ったり、こっちで騒いだり・・・ただのお気楽ネズミさん。
だから、あたしがちゃんとしないとね。
子年は十二支の最初の干支。
というわけで、これから十二年間、新しく出直すつもりで、
賀状も新シリーズを始めることにしました。
この調子で、2009年も2010年も書くことになってしまった・・・ようです。
皆様、よいお年を!
タグ :年賀
2007年12月30日
ただいま年賀状印刷中
今頃、と言われそうですが・・・・
ただいま、年賀状を印刷中。
宛名印刷は昼間に済ませましたが、絵柄とレイアウトを、どうにか今夜終わらせました。
印刷を見届けたら、明日は投函しに行く予定。
子年は十二支の先頭ですね。
再出発、という感じもします。
そんな気分で、賀状も2008年から12年間、シリーズにしようかな、なんて無謀なことを考えています。
毎年、干支がらみのネタを、シリーズで考えなければならなくなるのですが・・・・
大晦日の夜には、このブログにもアップします。
あ。
プリンタの音がしなくなった。
とりあえず・・・10枚は終わったわけです。
さて・・・と。
ただいま、年賀状を印刷中。
宛名印刷は昼間に済ませましたが、絵柄とレイアウトを、どうにか今夜終わらせました。
印刷を見届けたら、明日は投函しに行く予定。
子年は十二支の先頭ですね。
再出発、という感じもします。
そんな気分で、賀状も2008年から12年間、シリーズにしようかな、なんて無謀なことを考えています。
毎年、干支がらみのネタを、シリーズで考えなければならなくなるのですが・・・・
大晦日の夜には、このブログにもアップします。
あ。
プリンタの音がしなくなった。
とりあえず・・・10枚は終わったわけです。
さて・・・と。
2007年12月28日
矢祭町の快挙 議員の日当制
今日のラジオのニュース。
福島県の矢祭町議会で、議員報酬の日当制が決まったそうだ。
日当は3万円。
出席した議会(定例会、委員会など)と、議長がみとめた議員活動に要した日にちのみに対して、この日当が日割りで支払われる。
議会は、年間およそ30日。そのほかの活動もあるだろうが、議会の日数で単純計算すると約90万円が年間の議員報酬ということになる。
今までは、月額式で毎月20万円強が支払われていたから、これまた単純計算で、議員報酬は三分の一となる。
経費という点に着目するだけなら、経費節減、合理化という話です。
ただ、それ以上に、わたしがこのニュースを快挙だと感じたのは、議員と言う仕事に向き合う矢祭町の議会の心意気を感じたからだ。
議員と言うのは、もともと、その本来の意味においてのボランティア(志願者)であるべき存在だと思う。
その大切な仕事に就いた議員さんたちに、相応の報酬が与えられるのは当然とは思う。ただ、『議員』であることをある種の『商売』として、それで食っていこうという考え方があるとしたら問題だ。議員が(その議会活動において)儲かってはいけないのだと思う。もともとの仕事を続けながら、一方で村民、町民、市民のために議会活動を行うのが議員だ。だから、議員とは文字通りの『ボランティア』なのだ。議会も政治も『事業』ではないのだ。だから、本来の意味からいえば、議員が専業であること自体、不自然だ。
議会の英断だと思う。
全国では初だそうだ。
全国の、財政難に苦しむ自治体は、そしてそれらの自治体の議員たちは、このニュースをどう受け止めるだろうか。
矢祭町の議員さんは定数10名。年間2000万円以上の経費節減になるそうだ。
ひとつの自治体の総予算からすればそんなに大きな金額ではないかもしれない。
でも、その志はけっして小さくないと思う。
そして、たしかに行動している。
そういえば、矢祭町は『合併しない』宣言でも名をはせた。
がんばっているなあ。
「議会の志の高さに敬意を表する」
町長はそう言ったそうだ。
同感である。
福島県の矢祭町議会で、議員報酬の日当制が決まったそうだ。
日当は3万円。
出席した議会(定例会、委員会など)と、議長がみとめた議員活動に要した日にちのみに対して、この日当が日割りで支払われる。
議会は、年間およそ30日。そのほかの活動もあるだろうが、議会の日数で単純計算すると約90万円が年間の議員報酬ということになる。
今までは、月額式で毎月20万円強が支払われていたから、これまた単純計算で、議員報酬は三分の一となる。
経費という点に着目するだけなら、経費節減、合理化という話です。
ただ、それ以上に、わたしがこのニュースを快挙だと感じたのは、議員と言う仕事に向き合う矢祭町の議会の心意気を感じたからだ。
議員と言うのは、もともと、その本来の意味においてのボランティア(志願者)であるべき存在だと思う。
その大切な仕事に就いた議員さんたちに、相応の報酬が与えられるのは当然とは思う。ただ、『議員』であることをある種の『商売』として、それで食っていこうという考え方があるとしたら問題だ。議員が(その議会活動において)儲かってはいけないのだと思う。もともとの仕事を続けながら、一方で村民、町民、市民のために議会活動を行うのが議員だ。だから、議員とは文字通りの『ボランティア』なのだ。議会も政治も『事業』ではないのだ。だから、本来の意味からいえば、議員が専業であること自体、不自然だ。
議会の英断だと思う。
全国では初だそうだ。
全国の、財政難に苦しむ自治体は、そしてそれらの自治体の議員たちは、このニュースをどう受け止めるだろうか。
矢祭町の議員さんは定数10名。年間2000万円以上の経費節減になるそうだ。
ひとつの自治体の総予算からすればそんなに大きな金額ではないかもしれない。
でも、その志はけっして小さくないと思う。
そして、たしかに行動している。
そういえば、矢祭町は『合併しない』宣言でも名をはせた。
がんばっているなあ。
「議会の志の高さに敬意を表する」
町長はそう言ったそうだ。
同感である。
2007年12月27日
大鷲
2007年12月26日
2007年12月20日
2007年12月19日
牧笛つどう夜
2007年12月18日
ルバイヤート
高校生の頃、オマル・ハイヤームのこの詩集と出会って以来、『ルバイヤート』は愛読書?というか、ときおり読み直してはなんだかいい気持ちになる小さな本になっています。
オマル・ハイヤームはペルシア(イラン)人だけれど、セルジュク朝(トルコ)時代の人。
高校の世界史では、王朝が変わる=中東世界がその王朝に支配されるというイメージで習ったけれど、イスラム世界の王朝はどうやらゆるい統治を実現していたにすぎないらしく、いってみればセルジュク朝のサルタンは、中東世界の覇権を握っていたということらしい、ちょうど室町将軍みたいな感じかなあ・・・・などと、小難しい話は置いておいて・・・・・
オマル・ハイヤームはトルコ人によるイスラム王朝時代のペルシア(ホラサン)の大詩人。
(こういう言い方になるので、多少の小難しい前置きがどうしても要りますね)
大詩人と書いたけれど、彼は大科学者、天文学者、数学者、哲学者、気象学者でもあったらしいので、ちょうど欧州ルネサンスのヴィルトゥたちに似ているかもしれません。そして、彼らと同じく、ちょっと世の中からははみ出した感じの人。イスラム時代にあってお酒を賛美する詩を書いたりしてますし、どうやらかなり徹底した無心論者で、刹那主義的な顔を見せたりしてます。そんなわけで、アラブ世界のごく真面目な人たちには、彼を悪く言う人も少なくないようです。(酒飲みで無神論者では仕方ないですね)
手元にあるのは、もう三十年近く前に買い求めた、小川亮作氏が原典から訳した岩波文庫のものですが、小川氏の訳は元の四行詩(ルバーイイ)のリズムや脚韻を意識した口語体で、とても読みやすいので楽しい。声に出して読みたくなります。
詩の話を書いているのだから、いくつか引用してみるのが一番でしょうね。
(以下、岩波文庫『ルバイヤート』(オマル・ハイヤーム作 小川亮作訳)から引用)
こんなのがあります。
自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうした来たり去るのか?
この耳に説きあかしてくれた人があったか?
こんなのもどうです?
この道を歩んでいった人たちは、ねえ酒姫(サーキイ)
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。
皮肉が利いたのをふたつほど。
われは酒店に一人の翁(おきな)を見た。
先客の噂をたずねたら彼はいった――
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。
天国にはそんなに美しい天女がいるのか?
酒の泉や蜜の池があふれているというのか?
この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに、
天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?
ちょっときれいな感じのもあります。最後はお酒ですけど・・・
菫(すみれ)は衣を色にそめ、薔薇の袂(たもと)に、
そよかぜが妙なる楽を奏でるとき、
もし心ある人ならば、玉の乙女と酒をくみ、
その盃を破るだろうよ、石の面(も)に。
まあ、きりがないので、詩の引用はこのへんで。
ちょっと唐詩みたいな感じもあります。
(ちなみに、唐詩はあきらかに、当時西から伝わったであろうペルシアやアラビアの韻文の影響を受けています。絶句や律詩の構成や押韻などの唐詩形式の確立には、この手のルバーイイも貢献していると、私は考えています。・・・・またまた小難しいことを書いてしまいました)
そういえば、私は、李白も好きです。
ま、元気なときに読む詩ではないかもしれませんね。ちょっと疲れたときにいかがでしょう。
この、岩波文庫の『ルバイヤート』、本編の詩は、およそ半分。
後半は、オマル・ハイヤームとその当時のペルシャやセルジュク王朝に関する解説、それにルバーイイについての説明。これが、なかなか面白いのです。
ちなみに、オマル・ハイヤームは欧米でもけっこう名が知られているらしく、有名な伝説があります。
(この本の解説にもたっぷり触れられていますが)
サルタンの大宰相ネザーム・ル・ムルクとハシシン教団(アサシンと言ったほうが通りますでしょうか。例の伝説の暗殺教団です)の創設者ハサン・サッバーハ、それにオマル・ハイヤームの三人は、学生時代の親友同士。その後、出世争いでネザームとハサンは決別し、失脚したハサンがハシシン教団を創設し、暗殺者をネザームに差し向ける・・・・と、まあハリウッドばりの面白げな伝説があるのです。(時期がちょっと合わないけれど、三人とも実在の人物なので面白い)
そういえば、あのビクター・マチュア(って知ってますか?)主演(オマル役だったと思います)のハリウッド映画を幼い頃に観た記憶があります。ビクター・マチュアは最後にはハサンを倒し、サルタン(暗殺されて死んだ)に嫁いでしまった(いまや未亡人)恋人と結ばれ、楽しげにお酒を飲んでいる・・・そんな感じだったと記憶しています。う~ん。ドク・ホリディもそうだったけど、ビクターとお酒は似合いすぎ! それと、アラブの盗賊やサムソンとか、彼は砂漠のマッチョもはまり役です。
最近は東アジア風のファンタジーロマンがアニメとかで流行ってますけれど、アラブものも面白いかも・・・・
なんだか、とりとめもない記事になってしまいました。
オマル・ハイヤームはペルシア(イラン)人だけれど、セルジュク朝(トルコ)時代の人。
高校の世界史では、王朝が変わる=中東世界がその王朝に支配されるというイメージで習ったけれど、イスラム世界の王朝はどうやらゆるい統治を実現していたにすぎないらしく、いってみればセルジュク朝のサルタンは、中東世界の覇権を握っていたということらしい、ちょうど室町将軍みたいな感じかなあ・・・・などと、小難しい話は置いておいて・・・・・
オマル・ハイヤームはトルコ人によるイスラム王朝時代のペルシア(ホラサン)の大詩人。
(こういう言い方になるので、多少の小難しい前置きがどうしても要りますね)
大詩人と書いたけれど、彼は大科学者、天文学者、数学者、哲学者、気象学者でもあったらしいので、ちょうど欧州ルネサンスのヴィルトゥたちに似ているかもしれません。そして、彼らと同じく、ちょっと世の中からははみ出した感じの人。イスラム時代にあってお酒を賛美する詩を書いたりしてますし、どうやらかなり徹底した無心論者で、刹那主義的な顔を見せたりしてます。そんなわけで、アラブ世界のごく真面目な人たちには、彼を悪く言う人も少なくないようです。(酒飲みで無神論者では仕方ないですね)
手元にあるのは、もう三十年近く前に買い求めた、小川亮作氏が原典から訳した岩波文庫のものですが、小川氏の訳は元の四行詩(ルバーイイ)のリズムや脚韻を意識した口語体で、とても読みやすいので楽しい。声に出して読みたくなります。
詩の話を書いているのだから、いくつか引用してみるのが一番でしょうね。
(以下、岩波文庫『ルバイヤート』(オマル・ハイヤーム作 小川亮作訳)から引用)
こんなのがあります。
自分が来て宇宙になんの益があったか?
また行けばとて格別変化があったか?
いったい何のためにこうした来たり去るのか?
この耳に説きあかしてくれた人があったか?
こんなのもどうです?
この道を歩んでいった人たちは、ねえ酒姫(サーキイ)
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ。
皮肉が利いたのをふたつほど。
われは酒店に一人の翁(おきな)を見た。
先客の噂をたずねたら彼はいった――
酒をのめ、みんな行ったきりで、
一人として帰っては来なかった。
天国にはそんなに美しい天女がいるのか?
酒の泉や蜜の池があふれているというのか?
この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに、
天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?
ちょっときれいな感じのもあります。最後はお酒ですけど・・・
菫(すみれ)は衣を色にそめ、薔薇の袂(たもと)に、
そよかぜが妙なる楽を奏でるとき、
もし心ある人ならば、玉の乙女と酒をくみ、
その盃を破るだろうよ、石の面(も)に。
まあ、きりがないので、詩の引用はこのへんで。
ちょっと唐詩みたいな感じもあります。
(ちなみに、唐詩はあきらかに、当時西から伝わったであろうペルシアやアラビアの韻文の影響を受けています。絶句や律詩の構成や押韻などの唐詩形式の確立には、この手のルバーイイも貢献していると、私は考えています。・・・・またまた小難しいことを書いてしまいました)
そういえば、私は、李白も好きです。
ま、元気なときに読む詩ではないかもしれませんね。ちょっと疲れたときにいかがでしょう。
この、岩波文庫の『ルバイヤート』、本編の詩は、およそ半分。
後半は、オマル・ハイヤームとその当時のペルシャやセルジュク王朝に関する解説、それにルバーイイについての説明。これが、なかなか面白いのです。
ちなみに、オマル・ハイヤームは欧米でもけっこう名が知られているらしく、有名な伝説があります。
(この本の解説にもたっぷり触れられていますが)
サルタンの大宰相ネザーム・ル・ムルクとハシシン教団(アサシンと言ったほうが通りますでしょうか。例の伝説の暗殺教団です)の創設者ハサン・サッバーハ、それにオマル・ハイヤームの三人は、学生時代の親友同士。その後、出世争いでネザームとハサンは決別し、失脚したハサンがハシシン教団を創設し、暗殺者をネザームに差し向ける・・・・と、まあハリウッドばりの面白げな伝説があるのです。(時期がちょっと合わないけれど、三人とも実在の人物なので面白い)
そういえば、あのビクター・マチュア(って知ってますか?)主演(オマル役だったと思います)のハリウッド映画を幼い頃に観た記憶があります。ビクター・マチュアは最後にはハサンを倒し、サルタン(暗殺されて死んだ)に嫁いでしまった(いまや未亡人)恋人と結ばれ、楽しげにお酒を飲んでいる・・・そんな感じだったと記憶しています。う~ん。ドク・ホリディもそうだったけど、ビクターとお酒は似合いすぎ! それと、アラブの盗賊やサムソンとか、彼は砂漠のマッチョもはまり役です。
最近は東アジア風のファンタジーロマンがアニメとかで流行ってますけれど、アラブものも面白いかも・・・・
なんだか、とりとめもない記事になってしまいました。
2007年12月17日
自然の風合い
19世紀以降、欧州の楽器は「ピアノのような」均一な音色と安定した音量、フレージングの追求を行ってきました。楽器の「改良」と奏法の研究。
古楽器を見直そうとする人たちの志向のひとつに、その流れに対するアンチ・テーゼのようなところもあると思います。自然な揺らぎを手に入れなおしたい、ということかもしれません。
先日のTVでデニム生地メーカーを取材していました。
異なった糸の配合による「むら」や、異なった色に染める工程をはさむことによる「色あいの奥行き」を追求しています。
「技術が未熟だった時代の『むら』を意図的に作り出している」
のだそうです。
精妙な技術と、細心の計算による不均一の再現。
意図的、人工的なものであっても、自然の『むら』に近づこうとする志向は、昔からあったような気がします。たとえば、実に様々な色の名前。あるいは、かすりや霜降りなどの生地。あるいは、『襲ね』の色目・・・
今は、『霜降り』というと肉を思い浮かべる人が多いだろうけれど、いろいろな色の糸を織り交ぜて、遠くから見るとなんともいえない中間色、近くで見ると鮮やかな色の折柄、そんな生地です。
私の通っていた高校は、春と秋には当時としては珍しい「霜降り」の、遠くから見るとグレーの詰襟でした。なんとも風情のある生地でした。
いろいろな色の漆を塗り重ねて磨き上げると、自然な色むらが照り輝いて美しい面が出てくる、そういう漆器の技法もあります。
そんな漆器の味わいや、精妙な蒔絵のような絵をパステルで描きたいと、ずっと描きつづけてきたのです。
いつ、そこに届くかな。
古楽器を見直そうとする人たちの志向のひとつに、その流れに対するアンチ・テーゼのようなところもあると思います。自然な揺らぎを手に入れなおしたい、ということかもしれません。
先日のTVでデニム生地メーカーを取材していました。
異なった糸の配合による「むら」や、異なった色に染める工程をはさむことによる「色あいの奥行き」を追求しています。
「技術が未熟だった時代の『むら』を意図的に作り出している」
のだそうです。
精妙な技術と、細心の計算による不均一の再現。
意図的、人工的なものであっても、自然の『むら』に近づこうとする志向は、昔からあったような気がします。たとえば、実に様々な色の名前。あるいは、かすりや霜降りなどの生地。あるいは、『襲ね』の色目・・・
今は、『霜降り』というと肉を思い浮かべる人が多いだろうけれど、いろいろな色の糸を織り交ぜて、遠くから見るとなんともいえない中間色、近くで見ると鮮やかな色の折柄、そんな生地です。
私の通っていた高校は、春と秋には当時としては珍しい「霜降り」の、遠くから見るとグレーの詰襟でした。なんとも風情のある生地でした。
いろいろな色の漆を塗り重ねて磨き上げると、自然な色むらが照り輝いて美しい面が出てくる、そういう漆器の技法もあります。
そんな漆器の味わいや、精妙な蒔絵のような絵をパステルで描きたいと、ずっと描きつづけてきたのです。
いつ、そこに届くかな。
2007年12月16日
人違いか、忘却か
ちょっと腰を痛めて、夜のネット遊びを怠けている間に・・・50000カウントを過ぎてしまいました。
しまった!
過ぎしまったので・・・・55555カウントで、何かイベントを考えたいと思います。
先日、ある場所で、見知らぬ女性が微笑みながら近づいてきて
「ご無沙汰してます・・・・」と。
その女性、記憶になかったのですが、この年になると、こういったことがたまにありますから、いかにも自然にふるまうテクは身につけています。
「ああ、どうも、こちらこそご無沙汰しています・・」
と、にこやかに対応し、談笑を始めたところ・・・・彼女は、少し離れたところに立っていた友人を見て
「あっ!」
と小さく叫ぶではありませんか。
女性はくすくすと笑い始め、私に謝りました。
「ごめんなさい。間違えてしまった。暗いものですから・・・」
彼女は、私と私の友人を間違えて、私に挨拶してしまったのでした。
私もごく自然にふるまってしまったので、すっかり彼女は私を友人だと思い込んでしまったのでした。
友人も私も、たしかに黒い服を着ていました。そういえば、かの友人氏はいつも黒い服を着ています。背格好も少し(少しだけ)似ているし・・・・暗かったし・・・・しかし、なあ・・・ずいぶん違うと思うのだけれど・・・・
友人いわく。
「今、ふたりとも複雑な想いがかけめぐっていると思うよ。愉快に思っているか、不愉快に思っているか」
お互いに人違いの元になって、さてどんな心境になるか・・・確かに、難しいところ。
実際、見知らぬ人から親しく挨拶されることがあります。
こっちも、知り合い(と、こちらが思っているだけかもしれませんが)と思って、挨拶すると怪訝な顔をされることもあります。
先日、ラジオでこんなことを言っている人がいました。
「こっちは、行きつけのお店の店員さんや、泊まった宿の仲居さんとか、お世話になった人は『お知り合い』と思ってしまうのね。で、道でばったり会って挨拶したりすると怪訝な顔されたり。考えてみれば、向こうから見たらこちらはたくさんのお客さん――不特定多数の一人なのね」
一番多いのが、顔はわかるんだけど、どこで会ったとか、会ったときのシチュエーションもよくおぼえているんだけど、名前が出てこない。こういうときは困ります。歓談しながら、いつ名前で応対しなければならなくなるか・・・・けっこう緊張します。
これも以前の話。
あるコンサート会場で、黒いドレスに長いストレートヘアの、見知らぬ、美しいすらっとした妙齢の女性が
「こんばんは。おひさしぶり」
とにこやかに笑いながら近づいてきます。
彼女の友人と思しき数名の男女が、彼女に従っています。なんとも華やかな一行。
さて、記憶にない。こんな美人、忘れるはずもないのだが・・・
やや戸惑いながら(まだ、修行ができていなかったのですね)
「ああ、こんばんは」
と応じたものの・・・・女性は、わたしの戸惑いを見抜いたのでしょう。
「おぼえていらっしゃらないのでしょ?」
「はあ・・・その・・・どこで」
「いいのよ。気になさらないで」
と、ドレスの裾をなびかせながらお友達たちと去ってゆきます。
誰だったんでしょう。
ほんとうに、知り合いだったのかしらん。
ちょっと・・・怖かったなあ。
しまった!
過ぎしまったので・・・・55555カウントで、何かイベントを考えたいと思います。
先日、ある場所で、見知らぬ女性が微笑みながら近づいてきて
「ご無沙汰してます・・・・」と。
その女性、記憶になかったのですが、この年になると、こういったことがたまにありますから、いかにも自然にふるまうテクは身につけています。
「ああ、どうも、こちらこそご無沙汰しています・・」
と、にこやかに対応し、談笑を始めたところ・・・・彼女は、少し離れたところに立っていた友人を見て
「あっ!」
と小さく叫ぶではありませんか。
女性はくすくすと笑い始め、私に謝りました。
「ごめんなさい。間違えてしまった。暗いものですから・・・」
彼女は、私と私の友人を間違えて、私に挨拶してしまったのでした。
私もごく自然にふるまってしまったので、すっかり彼女は私を友人だと思い込んでしまったのでした。
友人も私も、たしかに黒い服を着ていました。そういえば、かの友人氏はいつも黒い服を着ています。背格好も少し(少しだけ)似ているし・・・・暗かったし・・・・しかし、なあ・・・ずいぶん違うと思うのだけれど・・・・
友人いわく。
「今、ふたりとも複雑な想いがかけめぐっていると思うよ。愉快に思っているか、不愉快に思っているか」
お互いに人違いの元になって、さてどんな心境になるか・・・確かに、難しいところ。
実際、見知らぬ人から親しく挨拶されることがあります。
こっちも、知り合い(と、こちらが思っているだけかもしれませんが)と思って、挨拶すると怪訝な顔をされることもあります。
先日、ラジオでこんなことを言っている人がいました。
「こっちは、行きつけのお店の店員さんや、泊まった宿の仲居さんとか、お世話になった人は『お知り合い』と思ってしまうのね。で、道でばったり会って挨拶したりすると怪訝な顔されたり。考えてみれば、向こうから見たらこちらはたくさんのお客さん――不特定多数の一人なのね」
一番多いのが、顔はわかるんだけど、どこで会ったとか、会ったときのシチュエーションもよくおぼえているんだけど、名前が出てこない。こういうときは困ります。歓談しながら、いつ名前で応対しなければならなくなるか・・・・けっこう緊張します。
これも以前の話。
あるコンサート会場で、黒いドレスに長いストレートヘアの、見知らぬ、美しいすらっとした妙齢の女性が
「こんばんは。おひさしぶり」
とにこやかに笑いながら近づいてきます。
彼女の友人と思しき数名の男女が、彼女に従っています。なんとも華やかな一行。
さて、記憶にない。こんな美人、忘れるはずもないのだが・・・
やや戸惑いながら(まだ、修行ができていなかったのですね)
「ああ、こんばんは」
と応じたものの・・・・女性は、わたしの戸惑いを見抜いたのでしょう。
「おぼえていらっしゃらないのでしょ?」
「はあ・・・その・・・どこで」
「いいのよ。気になさらないで」
と、ドレスの裾をなびかせながらお友達たちと去ってゆきます。
誰だったんでしょう。
ほんとうに、知り合いだったのかしらん。
ちょっと・・・怖かったなあ。