2009年03月30日
2009年03月30日
「みどりぐみ」公演のお知らせ
春芳からのお知らせです。
春芳は、6月6日(土曜日)横浜の関内ホールでの「みどりぐみ ~彩華乙女塾~」第2回公演『ブンナよ、木から下りて来い』の演出を担当いたします。
「みどりぐみ」は、声優の加藤みどりさんと野村道子さんがたちあげた、女性だけの朗読集団です。
若手の役者さんや声優さんが集まって、加藤みどりさんの指導と野村道子さんのプロデュースの下で活動しています。
よろしくお願いいたします。
春芳は、6月6日(土曜日)横浜の関内ホールでの「みどりぐみ ~彩華乙女塾~」第2回公演『ブンナよ、木から下りて来い』の演出を担当いたします。
「みどりぐみ」は、声優の加藤みどりさんと野村道子さんがたちあげた、女性だけの朗読集団です。
若手の役者さんや声優さんが集まって、加藤みどりさんの指導と野村道子さんのプロデュースの下で活動しています。
公演概要:
《第2回公演 みどりぐみ ~彩華乙女塾~》
日 時 2009年6月6日(土)
13:30開場 14:00開演
17:30開場 18:00開演
全2回公演
会 場 関内ホール 小ホール
演目『ブンナよ、木から下りて来い』(上演時間 約90分)
作:水上 勉 / 脚本:渡辺利弥 / 演出:春芳
入場料 全席自由 前売り 2、000円 当日: 2、500円
チケット発売 3月22日(日)発売開始
「みどりぐみ」のHPはこちら
http://midorigumimidorigumi.web.fc2.com/midoritop.html
「関内ホール」のインフォメーションはこちら
http://www.kannaihall.jp/event/topics_new.php?id=58
《第2回公演 みどりぐみ ~彩華乙女塾~》
日 時 2009年6月6日(土)
13:30開場 14:00開演
17:30開場 18:00開演
全2回公演
会 場 関内ホール 小ホール
演目『ブンナよ、木から下りて来い』(上演時間 約90分)
作:水上 勉 / 脚本:渡辺利弥 / 演出:春芳
入場料 全席自由 前売り 2、000円 当日: 2、500円
チケット発売 3月22日(日)発売開始
「みどりぐみ」のHPはこちら
http://midorigumimidorigumi.web.fc2.com/midoritop.html
「関内ホール」のインフォメーションはこちら
http://www.kannaihall.jp/event/topics_new.php?id=58
よろしくお願いいたします。
2009年03月29日
菜の花はどこへ行った
2009年03月29日
2009年03月28日
勇者・・・
テレビで「勇者」をいろいろ見せるというバラエティをやっていました。
たしかに勇敢な人も取り上げられていたけれど、偶然危険な目にあって助かっただけとか、危険なショーやエンターテイメントをしてみせることを仕事にしている人とか、勇敢とか勇者とかいうのとはちょっと違うなと首をかしげたくなるもののほうが多かったような気がします・・・・なんて、カタいことを思いながら見る番組ではないんでしょうね。(笑)
勇者とか勇敢ということで、思い出したナポレオンの逸話があります。
ある戦場、ナポレオンの幕営近くで、ふたりの兵卒が砲弾を運んでいた。
ひとりは堂々たる体躯の大柄な兵卒、ひとりは背も低く痩せた兵卒。
大きなほうは、砲弾を無造作に軽々と持ち上げると、すたすたと歩き、大砲まで次から次へと運んでいる。
小さなほうは、砲弾をおそるおそる抱え、蒼い顔をして足を震わせながらのろのろと運んでいる。
ナポレオンがかたわらの将校に問うた。
「あのふたりの、どちらが勇敢だと思うか?」
将校が、大きなほうが勇敢でしょう、と答えるとナポレオンはこんなことを言った。
「違うな。大きなほうは恐れを知らないだけだ。つまりは、がさつなだけだ。小さなほうは砲弾を運ぶ仕事の恐ろしさを知っている。知っているから恐れている。その恐れと戦いながら・・・落とせば死ぬかもしれないと恐れながら、危険に身を曝していることを知りながら、務めを果たそうとしている。だから、勇敢なのは小さなほうだ。恐れを知らないことと勇敢であることとは違う」
さて、そうすると・・・今夜のバラエティに登場した勇者たちの中に、ナポレオンをうならせる勇者は・・・・
たしかに勇敢な人も取り上げられていたけれど、偶然危険な目にあって助かっただけとか、危険なショーやエンターテイメントをしてみせることを仕事にしている人とか、勇敢とか勇者とかいうのとはちょっと違うなと首をかしげたくなるもののほうが多かったような気がします・・・・なんて、カタいことを思いながら見る番組ではないんでしょうね。(笑)
勇者とか勇敢ということで、思い出したナポレオンの逸話があります。
ある戦場、ナポレオンの幕営近くで、ふたりの兵卒が砲弾を運んでいた。
ひとりは堂々たる体躯の大柄な兵卒、ひとりは背も低く痩せた兵卒。
大きなほうは、砲弾を無造作に軽々と持ち上げると、すたすたと歩き、大砲まで次から次へと運んでいる。
小さなほうは、砲弾をおそるおそる抱え、蒼い顔をして足を震わせながらのろのろと運んでいる。
ナポレオンがかたわらの将校に問うた。
「あのふたりの、どちらが勇敢だと思うか?」
将校が、大きなほうが勇敢でしょう、と答えるとナポレオンはこんなことを言った。
「違うな。大きなほうは恐れを知らないだけだ。つまりは、がさつなだけだ。小さなほうは砲弾を運ぶ仕事の恐ろしさを知っている。知っているから恐れている。その恐れと戦いながら・・・落とせば死ぬかもしれないと恐れながら、危険に身を曝していることを知りながら、務めを果たそうとしている。だから、勇敢なのは小さなほうだ。恐れを知らないことと勇敢であることとは違う」
さて、そうすると・・・今夜のバラエティに登場した勇者たちの中に、ナポレオンをうならせる勇者は・・・・
2009年03月28日
今日の春
寒の戻りながら、今日、みかけた春です。
お気に入りの木(三つの木があわさって一本の大樹のようになっている不思議な木)の前に、菜の花がぽつんと立っているのですが・・・なんだか
大樹のかたわらの祠の前に
ぽつんとたたずむ
黄色い着物の少女
のようで・・・・妄想が過ぎましたか(^^ゞ
夕方近くだったし、お能のような風情です。
2009年03月27日
2009年03月26日
郵便バス
6月から高齢者が自動車運転免許を更新する際に、認知症の検査を行うことになりますね。
今週、手術を終えた親父殿などは、次の更新に出かけるときには、日付くらいは確認しておかないと「疑いあり」ということになりかねません。仕事を離れると、あんがい「今日が何日か」とか「何曜日か」とかは気にしなくなりますから。
(隠していたわけではないのですが・・・親父殿は、今週、手術を受けまして、無事に終えましたが、来週、もう一度手術なのです。それほど深刻なものではありませんが、年だし、手術は手術ですから半分終えてほっとしているところです)
さて、実際に、親父殿が運転できないということになったとしたら、我が家はおおいに困ります。日常の買い物や自分自身や母の通院に「車」は欠かせないのです。今回、親父殿の手術で「平日の昼間は車を出せない」状況の中で、母などは「タクシーで野菜を買いに行く」と言い出す始末です。私が「帰りに(学校の近くの)マーケットで買ってくるから」と言うのですが「行きなれたお店で、自分の眼でみて買いたい」と言い張るのです。これには困りました。が、しかし、そういう母の気持ちもわかるのです。自分で買い物ができないというもどかしさは、長年「主婦」としてのつとめを全うしてきた母には耐えがたいものであるに違いありません。でも、ちょっと我慢しててもらわねばなりません。
過疎地というわけでもないのに、この国の地方では、こんな「車依存」の地域が数えきれないほどあるはずです。我が家のあたりも自家用車は必需品です。それも一家に複数台があたりまえ。我が家でいえば、私が仕事に出てしまえば、昼間の足は、もう一台の自家用車を父が運転するしかないのですから。
高校という場でも同じような事情が発生しています。ローカル鉄道が廃線となり、代替バス便が徐々にダイヤを削られ・・・通学に不便になった、というような例はいくらでもあります。近隣の生徒は普通に自転車通学も可能ですが、天候が荒れた時などは保護者の皆様の送り迎えが生命線になったりします。わが校でも、ある程度以上の距離の通学に対してはバイク通学(50cc)を認めていますし、朝は送迎の自家用車で学校の駐車場はかなり混雑します。遠隔地で保護者の送迎が難しければ、最寄の鉄道駅から自転車ということになりますが、「自宅からその最寄駅まで自転車、さらに学校最寄りの駅から学校まで自転車」と、駐輪場を二か所手配しなければならない(つまり自転車が2台)ケースも珍しくはありません。バス通学も不可能ではありませんが、冬場、日がとっぷりと暮れて、寒い中、本数の少ないバスの時間が来るまで、昇降口あたりで身を縮めて時間待ちをしている部活や生徒会の生徒の姿を見ると気の毒になります。
長々と地域の公共交通機関の不便について書いてしまいましたが、数年前まで、経済特区とか自由化とか規制緩和とかが合言葉になっていたころ、「なぜ、あの業界から、こういう発案がでてこないのだろう」と、かねて思っていたことがあるのです。
話はちょっとそれますが、旅先で印象深かったことをちょっと書きます。
スイスは、鉄道とともにバス路線がおおいに発達しています。以前、スイスを訪れたとき、そのバス便で山奥の(スイスじたい山奥なんですけど)温泉地の教会まで、オルガンコンサートを聴きに行ったことがあります。それ以外にも、いくどか路線バスを利用して田舎の小さな集落まででかけました。
スイスのバスは、じつは「郵便局」が運営しているのです。スイスの郵便局のシンボルカラーは黄色なので、スイスの路線バスは黄色いバスです。なぜ郵便局がバスを運営しているかというと、もともとは郵便物を集配するためのネットワークに旅客運送サービスを加えるかたちで発達したからです。つまり、郵便馬車についでにお客を乗せる、という発想です。船でいえば貨客船ですね。じっさい、路線バスの後部などには郵便物を収納するスペースやボックスがあり、バスは行く先々の郵便局で郵便物を積み下ろしします。町や村の郵便局は、それぞれの町や村のバスターミナルでもあるのです。
そういえば、以前、北海道でも、釧路から阿寒方面に向かう早朝のバスに乗ったとき、運転席のわきに積んであった新聞の束を途中で下しているのを見たことがあります。これなどは、旅客路線バスが、新聞の配送に一役かっているということになるのでしょう。
ここまで書けば、私が何を言いたいか、何を提案したいか、わかるでしょう。
民営化された郵便事業会社や、宅配便の会社は、なぜ「旅客運送事業」に乗り出そうとしなかったのか・・・規制緩和が叫ばれていた時機を逃さず名乗りを上げていれば・・・というのが、私の素朴な疑問なのです。
地方ではバス会社も赤字路線をかかえており、不便な所ほど、バス便が減ったり路線が廃止されたりして、ますます不便になっています。
一方、そんな田舎でも、県道や国道沿いにコンビニはできていますし、郵便局に至っては全国津々浦々にあります。宅配便の受け付け代理店もあちこちにありますよね。旅客こそ載せないけれど、宅配便や郵便局の車は、郵便物や荷物の配送のためのネットワークがあり、効率的な集配送を日々行っています。この「荷物を載せている車」に旅客を相乗りさせることができれば、公共交通機関の不便に悩んでいる地域にはありがたい話だと思うのですが、いかがでしょう。コンビニや郵便局、宅配の受付代理店がバス停です。
大きなバスである必要はないでしょう。旅客運送だけにしぼってしまうと利用者が少ないから、路線を維持したり便数を増やせば確かに赤字になり、バス会社の経営を圧迫します。しかし、いつも荷物を配送している便に「ついでに旅客を乗せる」のであれば、それほどの営業負担にはならないのではないか、と感じるのです。あらたな投資としては、旅客自動車を運転する資格を持った運転手の雇用や育成ということになりますが、昨今、すでにその資格も経験も持っている運転技術者(いわゆる「非正規雇用」の人たちがかなり多い)で、バス会社の経営難から仕事を失いつつある人たちも多いようです。こういった人たちの雇用を確保する効果もあるんじゃないかしらん。
どうでしょう。宅配便会社や郵便会社が「旅客運送」、それも「路線乗合自動車」の事業に乗り出す。乗り出すにあたっての設備投資は少なくて済む。利用者にも、会社にも、地域にもメリットは大きいのではないかしらん。既存のバス会社からすると競合者になるかもしれませんが、住み分けは可能でしょう。(じっさい、路線廃止や便数削減でしのいでいるのでしょ)
だめかなあ。素人考えかしらん・・・。
今週、手術を終えた親父殿などは、次の更新に出かけるときには、日付くらいは確認しておかないと「疑いあり」ということになりかねません。仕事を離れると、あんがい「今日が何日か」とか「何曜日か」とかは気にしなくなりますから。
(隠していたわけではないのですが・・・親父殿は、今週、手術を受けまして、無事に終えましたが、来週、もう一度手術なのです。それほど深刻なものではありませんが、年だし、手術は手術ですから半分終えてほっとしているところです)
さて、実際に、親父殿が運転できないということになったとしたら、我が家はおおいに困ります。日常の買い物や自分自身や母の通院に「車」は欠かせないのです。今回、親父殿の手術で「平日の昼間は車を出せない」状況の中で、母などは「タクシーで野菜を買いに行く」と言い出す始末です。私が「帰りに(学校の近くの)マーケットで買ってくるから」と言うのですが「行きなれたお店で、自分の眼でみて買いたい」と言い張るのです。これには困りました。が、しかし、そういう母の気持ちもわかるのです。自分で買い物ができないというもどかしさは、長年「主婦」としてのつとめを全うしてきた母には耐えがたいものであるに違いありません。でも、ちょっと我慢しててもらわねばなりません。
過疎地というわけでもないのに、この国の地方では、こんな「車依存」の地域が数えきれないほどあるはずです。我が家のあたりも自家用車は必需品です。それも一家に複数台があたりまえ。我が家でいえば、私が仕事に出てしまえば、昼間の足は、もう一台の自家用車を父が運転するしかないのですから。
高校という場でも同じような事情が発生しています。ローカル鉄道が廃線となり、代替バス便が徐々にダイヤを削られ・・・通学に不便になった、というような例はいくらでもあります。近隣の生徒は普通に自転車通学も可能ですが、天候が荒れた時などは保護者の皆様の送り迎えが生命線になったりします。わが校でも、ある程度以上の距離の通学に対してはバイク通学(50cc)を認めていますし、朝は送迎の自家用車で学校の駐車場はかなり混雑します。遠隔地で保護者の送迎が難しければ、最寄の鉄道駅から自転車ということになりますが、「自宅からその最寄駅まで自転車、さらに学校最寄りの駅から学校まで自転車」と、駐輪場を二か所手配しなければならない(つまり自転車が2台)ケースも珍しくはありません。バス通学も不可能ではありませんが、冬場、日がとっぷりと暮れて、寒い中、本数の少ないバスの時間が来るまで、昇降口あたりで身を縮めて時間待ちをしている部活や生徒会の生徒の姿を見ると気の毒になります。
長々と地域の公共交通機関の不便について書いてしまいましたが、数年前まで、経済特区とか自由化とか規制緩和とかが合言葉になっていたころ、「なぜ、あの業界から、こういう発案がでてこないのだろう」と、かねて思っていたことがあるのです。
話はちょっとそれますが、旅先で印象深かったことをちょっと書きます。
スイスは、鉄道とともにバス路線がおおいに発達しています。以前、スイスを訪れたとき、そのバス便で山奥の(スイスじたい山奥なんですけど)温泉地の教会まで、オルガンコンサートを聴きに行ったことがあります。それ以外にも、いくどか路線バスを利用して田舎の小さな集落まででかけました。
スイスのバスは、じつは「郵便局」が運営しているのです。スイスの郵便局のシンボルカラーは黄色なので、スイスの路線バスは黄色いバスです。なぜ郵便局がバスを運営しているかというと、もともとは郵便物を集配するためのネットワークに旅客運送サービスを加えるかたちで発達したからです。つまり、郵便馬車についでにお客を乗せる、という発想です。船でいえば貨客船ですね。じっさい、路線バスの後部などには郵便物を収納するスペースやボックスがあり、バスは行く先々の郵便局で郵便物を積み下ろしします。町や村の郵便局は、それぞれの町や村のバスターミナルでもあるのです。
そういえば、以前、北海道でも、釧路から阿寒方面に向かう早朝のバスに乗ったとき、運転席のわきに積んであった新聞の束を途中で下しているのを見たことがあります。これなどは、旅客路線バスが、新聞の配送に一役かっているということになるのでしょう。
ここまで書けば、私が何を言いたいか、何を提案したいか、わかるでしょう。
民営化された郵便事業会社や、宅配便の会社は、なぜ「旅客運送事業」に乗り出そうとしなかったのか・・・規制緩和が叫ばれていた時機を逃さず名乗りを上げていれば・・・というのが、私の素朴な疑問なのです。
地方ではバス会社も赤字路線をかかえており、不便な所ほど、バス便が減ったり路線が廃止されたりして、ますます不便になっています。
一方、そんな田舎でも、県道や国道沿いにコンビニはできていますし、郵便局に至っては全国津々浦々にあります。宅配便の受け付け代理店もあちこちにありますよね。旅客こそ載せないけれど、宅配便や郵便局の車は、郵便物や荷物の配送のためのネットワークがあり、効率的な集配送を日々行っています。この「荷物を載せている車」に旅客を相乗りさせることができれば、公共交通機関の不便に悩んでいる地域にはありがたい話だと思うのですが、いかがでしょう。コンビニや郵便局、宅配の受付代理店がバス停です。
大きなバスである必要はないでしょう。旅客運送だけにしぼってしまうと利用者が少ないから、路線を維持したり便数を増やせば確かに赤字になり、バス会社の経営を圧迫します。しかし、いつも荷物を配送している便に「ついでに旅客を乗せる」のであれば、それほどの営業負担にはならないのではないか、と感じるのです。あらたな投資としては、旅客自動車を運転する資格を持った運転手の雇用や育成ということになりますが、昨今、すでにその資格も経験も持っている運転技術者(いわゆる「非正規雇用」の人たちがかなり多い)で、バス会社の経営難から仕事を失いつつある人たちも多いようです。こういった人たちの雇用を確保する効果もあるんじゃないかしらん。
どうでしょう。宅配便会社や郵便会社が「旅客運送」、それも「路線乗合自動車」の事業に乗り出す。乗り出すにあたっての設備投資は少なくて済む。利用者にも、会社にも、地域にもメリットは大きいのではないかしらん。既存のバス会社からすると競合者になるかもしれませんが、住み分けは可能でしょう。(じっさい、路線廃止や便数削減でしのいでいるのでしょ)
だめかなあ。素人考えかしらん・・・。
2009年03月24日
金沢21世紀美術館の印象
先日訪れた「金沢21世紀美術館」の印象を。
まず、驚いたのは、朝から入場券を求める人たちの長蛇の列。昼ごろにもこの列は解消していませんでした。
開館間もない時間帯からずっと、これほど混雑するのは、美術館としては(実のところ)珍しいと思います。たとえば、東京あたりの有名な美術館で、それなりに巨匠・名匠といえるような作家の企画展があっても、受付に長蛇の列ができることはめったにありません。おかげで「美術館を訪れる」という遊びは、静かな休暇を楽しむのにもってこい(・・・デートに最適な場所・・・)ということになります。
ところが、金沢21世紀美術館の発券所は、映画館、劇場、遊園地の雰囲気があります。
どこがふつうの美術館と違うのか・・・
ポイントは、観客参加型ということでしょうか。
コレクションについては、常設展示を拝見したところ、確かに個性的です。インスタレーションが多いし、アニメーション展示もあります。等身大フィギュア、奈良美智の空間など、現代のアートシーンを概観することもできます。
でも、それ以上に、この美術館に活気を与えているのは、たぶん、来場者が参加するアートの面白さでしょうね。遊園地的です。
たとえば、ここの目玉「レアンドロのプール」(先日の記事で紹介)は「観覧者が地上と地下からそれぞれ覗きこむこと」があって初めて成立するアートです。来場者がここで遊ばなければアートとしては成立しません。あの巨大なサッカーゲームも、来場者が遊ばなければただの大きな(それも粗っぽい)模型でしかありません。館外には、ちょっとした遊びが楽しめるもの(遊具に近い)が配置してあります。これらも遊べなければ、あまり珍しくないオブジェにしかなりません。
そして、なんといっても面白いのは「パップ・パトロール(Pup Patrol)」という企画です。企画自体が奈良美智の作品で、来場した子供たちが奈良デザインの犬の着ぐるみを着て(子供たち自身が奈良作品になる)美術館を探検するというプログラムです。来場した子供たち自身がアートの一部になり、かれらが探検する美術館全体が奈良作品になり、そこに居合わせた他の来場者たちも作品の一部を構成することになります。
こういう美術館は、あまりありませんよね。
展示スペースやレイアウトも一般の美術館とはかなり違っています。
展示室が作品個別に分かれていて出入りしにくいところもある上に、通路が案外狭い。ところが、発券所が混雑していた割には、中が混み合っているという感じはあまりしません。来場者は、作品群を閲覧するというよりも、ひとつひとつの作品や作家を「訪問する」という感覚で展示室をめぐることになります。このあたりも愉しい。
また機会があれば「遊びに行きたい」美術館でした。
まず、驚いたのは、朝から入場券を求める人たちの長蛇の列。昼ごろにもこの列は解消していませんでした。
開館間もない時間帯からずっと、これほど混雑するのは、美術館としては(実のところ)珍しいと思います。たとえば、東京あたりの有名な美術館で、それなりに巨匠・名匠といえるような作家の企画展があっても、受付に長蛇の列ができることはめったにありません。おかげで「美術館を訪れる」という遊びは、静かな休暇を楽しむのにもってこい(・・・デートに最適な場所・・・)ということになります。
ところが、金沢21世紀美術館の発券所は、映画館、劇場、遊園地の雰囲気があります。
どこがふつうの美術館と違うのか・・・
ポイントは、観客参加型ということでしょうか。
コレクションについては、常設展示を拝見したところ、確かに個性的です。インスタレーションが多いし、アニメーション展示もあります。等身大フィギュア、奈良美智の空間など、現代のアートシーンを概観することもできます。
でも、それ以上に、この美術館に活気を与えているのは、たぶん、来場者が参加するアートの面白さでしょうね。遊園地的です。
たとえば、ここの目玉「レアンドロのプール」(先日の記事で紹介)は「観覧者が地上と地下からそれぞれ覗きこむこと」があって初めて成立するアートです。来場者がここで遊ばなければアートとしては成立しません。あの巨大なサッカーゲームも、来場者が遊ばなければただの大きな(それも粗っぽい)模型でしかありません。館外には、ちょっとした遊びが楽しめるもの(遊具に近い)が配置してあります。これらも遊べなければ、あまり珍しくないオブジェにしかなりません。
そして、なんといっても面白いのは「パップ・パトロール(Pup Patrol)」という企画です。企画自体が奈良美智の作品で、来場した子供たちが奈良デザインの犬の着ぐるみを着て(子供たち自身が奈良作品になる)美術館を探検するというプログラムです。来場した子供たち自身がアートの一部になり、かれらが探検する美術館全体が奈良作品になり、そこに居合わせた他の来場者たちも作品の一部を構成することになります。
こういう美術館は、あまりありませんよね。
展示スペースやレイアウトも一般の美術館とはかなり違っています。
展示室が作品個別に分かれていて出入りしにくいところもある上に、通路が案外狭い。ところが、発券所が混雑していた割には、中が混み合っているという感じはあまりしません。来場者は、作品群を閲覧するというよりも、ひとつひとつの作品や作家を「訪問する」という感覚で展示室をめぐることになります。このあたりも愉しい。
また機会があれば「遊びに行きたい」美術館でした。
タグ :金沢21世紀美術館