2009年02月16日
目標と「こころざし」
私の奉職している学校は、いわゆる進学校ではありませんが、その中ではかなり成績の良い生徒がいます。
彼は、器用なほうではありませんが、目標をたてたら、きっちり努力を重ねて、それを実現するなかなかの努力家です。
努力の甲斐あって、志望大学に合格もし、来る春、彼は将来への足がかりを手に入れました。
しかし、さきごろ行われた最後の考査では、かなり成績を落としました。
目標を達成してしまったので、手を抜いてしまったのは明白です。
彼には、弱点があります。
かつて成績が振るわなかった彼は、塾にも通い、みるみる成績を上げていったのですが、どうやらライバルと自分をいつも比べ、何かと勝ち負けを意識する癖があるのです。
「○○に勝った」
「××に負けた」
勝ち負けにこだわるのが、彼の弱点です。
もっとも、この弱点は、当面の目標を達成する上では「負けん気が強い」という長所になります。ただし、その「負けん気」の相手は、いつだって「誰か」です。彼が勝ちたいのは「誰か」、たとえばライバルに対してであって、課題そのものや、ましてや自分自身ではありません。
彼が努力する動機は、ですから達成感ではありません。何かができたことではなく、誰かに勝ったこと。大学に合格したことも、彼にとっては「何かを成し遂げた」のではなく「勝ち残った」というふうに感じられているはずです。
だから、目標を達成した瞬間に、その次の目標設定ができないのです。
目標設定ができない以上、努力の意義は失われます。
今の彼は、そんな状況にあるのです。
おそらく、大学に進み、そこで新たな敗北の可能性に出会い、ふたたび勝ち残るための「目標」が現れた時、彼は新たな努力の種を見出すことでしょう。
しかし、この繰り返しでは、どこかで目標を見失うか、あるいは「勝つ相手」を求め続けて、結局は何かを「成し遂げる」ことなく人生を終えてしまいかねません。
人生にほんとうに必要なのは、目標や目的ではなくて、成し遂げても成し遂げてもきりのない何かです。
「こころざし」というのは、そういうことなのだと思います。
「こころざし」というと大げさなようですが、こころざしを立てることじたいは、そんな大変なことではないと思います。
「こんな男になりたい」とか「こんな女になりたい」とか、もう少しアップすれば「こういう人間になりたい」とか、これ、りっぱなこころざしですよね。抽象的で思いつきにくいなら、身近な所にモデルを探しましょうよ。「あんな人になりたい」とかね。
―― なあんだ、そんなことでいいの?
と言われそうですが、考えてみてください。
望んでいたような人間になれた、と思ったときから、こんどは、そのような人間であることを続けなければならない。
これは、けっこう大変なことです。終わりがない。これでよし、というところがない。
企業や国家でも同じですね。
売上の達成は目標に過ぎません。戦勝も、経済発展も(GDPとか)、外交上の立場も、目標達成でしかない。
その売り上げや、国力や、外交上の成果も、企業や国家の理念に即していればこそ意義があるのであって、そこからはずれていたら、いくら儲かっても、いくら外交上の立場が強くなっても、意義はないわけです。
そして、理念――「こころざし」があれば、常に課題をもって前に進むことができ、驕ることもありません。
あの宮澤賢治は、その遺されたノートに、彼のこころざしを記していました。
―― サウイウモノニ ワタシハナリタイ
追っても追っても、「そういものになれない」と叫ぶ。
それが「こころざし」というものなのだろうと、思うのです。
さて、彼が、追っても追っても果てのない、彼の「サウイウモノ」を見つけることができるかどうか。
しばらくは、様子を見守ることにしましょうか。
彼は、器用なほうではありませんが、目標をたてたら、きっちり努力を重ねて、それを実現するなかなかの努力家です。
努力の甲斐あって、志望大学に合格もし、来る春、彼は将来への足がかりを手に入れました。
しかし、さきごろ行われた最後の考査では、かなり成績を落としました。
目標を達成してしまったので、手を抜いてしまったのは明白です。
彼には、弱点があります。
かつて成績が振るわなかった彼は、塾にも通い、みるみる成績を上げていったのですが、どうやらライバルと自分をいつも比べ、何かと勝ち負けを意識する癖があるのです。
「○○に勝った」
「××に負けた」
勝ち負けにこだわるのが、彼の弱点です。
もっとも、この弱点は、当面の目標を達成する上では「負けん気が強い」という長所になります。ただし、その「負けん気」の相手は、いつだって「誰か」です。彼が勝ちたいのは「誰か」、たとえばライバルに対してであって、課題そのものや、ましてや自分自身ではありません。
彼が努力する動機は、ですから達成感ではありません。何かができたことではなく、誰かに勝ったこと。大学に合格したことも、彼にとっては「何かを成し遂げた」のではなく「勝ち残った」というふうに感じられているはずです。
だから、目標を達成した瞬間に、その次の目標設定ができないのです。
目標設定ができない以上、努力の意義は失われます。
今の彼は、そんな状況にあるのです。
おそらく、大学に進み、そこで新たな敗北の可能性に出会い、ふたたび勝ち残るための「目標」が現れた時、彼は新たな努力の種を見出すことでしょう。
しかし、この繰り返しでは、どこかで目標を見失うか、あるいは「勝つ相手」を求め続けて、結局は何かを「成し遂げる」ことなく人生を終えてしまいかねません。
人生にほんとうに必要なのは、目標や目的ではなくて、成し遂げても成し遂げてもきりのない何かです。
「こころざし」というのは、そういうことなのだと思います。
「こころざし」というと大げさなようですが、こころざしを立てることじたいは、そんな大変なことではないと思います。
「こんな男になりたい」とか「こんな女になりたい」とか、もう少しアップすれば「こういう人間になりたい」とか、これ、りっぱなこころざしですよね。抽象的で思いつきにくいなら、身近な所にモデルを探しましょうよ。「あんな人になりたい」とかね。
―― なあんだ、そんなことでいいの?
と言われそうですが、考えてみてください。
望んでいたような人間になれた、と思ったときから、こんどは、そのような人間であることを続けなければならない。
これは、けっこう大変なことです。終わりがない。これでよし、というところがない。
企業や国家でも同じですね。
売上の達成は目標に過ぎません。戦勝も、経済発展も(GDPとか)、外交上の立場も、目標達成でしかない。
その売り上げや、国力や、外交上の成果も、企業や国家の理念に即していればこそ意義があるのであって、そこからはずれていたら、いくら儲かっても、いくら外交上の立場が強くなっても、意義はないわけです。
そして、理念――「こころざし」があれば、常に課題をもって前に進むことができ、驕ることもありません。
あの宮澤賢治は、その遺されたノートに、彼のこころざしを記していました。
―― サウイウモノニ ワタシハナリタイ
追っても追っても、「そういものになれない」と叫ぶ。
それが「こころざし」というものなのだろうと、思うのです。
さて、彼が、追っても追っても果てのない、彼の「サウイウモノ」を見つけることができるかどうか。
しばらくは、様子を見守ることにしましょうか。
Posted by 冬野由記 at 20:41│Comments(2)
│徒然なるままに
この記事へのコメント
負けん気が強いのに、目標を守れたことのない、根性のない子どもでした。
いろいろな大波小波をくぐり抜け、最近ちょっとだけ、自分であれば良いのだと思えるようになりました。
他人と比べることのない、こつこつタイプ。
向かっては行かないけれど、長いものにも巻かれない。
そんな人と一緒にいられることに、いつも感謝しています。
いろいろな大波小波をくぐり抜け、最近ちょっとだけ、自分であれば良いのだと思えるようになりました。
他人と比べることのない、こつこつタイプ。
向かっては行かないけれど、長いものにも巻かれない。
そんな人と一緒にいられることに、いつも感謝しています。
Posted by さむ at 2009年02月17日 00:02
さむ様
ご無沙汰いたしております。
コメントありがとうございました。
目標は達成できたりできなかったりすることもありますけれど、
むしろ「こころざし」があれば、顧みながら歩けますから。
実のところ、
「こんな自分でありたい」とか
「今の自分は、わたしの自分であるか・・」
など、かえりみる気持ちになれるようになるのは、ずいぶん年をくってからだとも思います。
たぶん、最晩年に
「自分は自分に届いただろうか」
などと、ようやく振り返ることができるのだろうと思います。
冬野
ご無沙汰いたしております。
コメントありがとうございました。
目標は達成できたりできなかったりすることもありますけれど、
むしろ「こころざし」があれば、顧みながら歩けますから。
実のところ、
「こんな自分でありたい」とか
「今の自分は、わたしの自分であるか・・」
など、かえりみる気持ちになれるようになるのは、ずいぶん年をくってからだとも思います。
たぶん、最晩年に
「自分は自分に届いただろうか」
などと、ようやく振り返ることができるのだろうと思います。
冬野
Posted by 冬野由記 at 2009年02月18日 06:31