2010年07月19日
テロリスト列伝 Ⅰ『サムソン』(その33)
《サムソン その33》
預言者とは、一面では異端者でもある。
預言者は神の言葉を直(じか)に預かるからである。
人々は長い歳月をかけて信仰をはぐくんでいく。いつも「偉大な指導者」が存在するわけではないから、先人の言葉や事績を通して戒律がととのえられ、人々を正統(ただ)しい信仰に導くための体系(システム)が整備される。たとえば聖書やコーラン、経典であり、教団や教会である。一般信徒と聖職者や教主を分けるのは神の声を聴く力ではなく、体系に則った教育や訓練を修了したか否かである。
ところが、預言者は、そんな体系をすっ飛ばして、いきなり神の声を聴いてしまう。体系に従って神の意志を推し量る生き方こそが信仰の正統であるとしたら、たとえ預言者が伝える神の言葉が、体系が示す神の意志と矛盾しなかったとしても(つまり、結果において預言者の言葉が義(ただ)しかったとしても)、預言という行為自体が信仰の正統を侵しているのだ。正統からはずれた信仰は、すなわち異端なのである。
だから、その名誉が回復され「聖女」になったとしても、かのジャンヌ・ダルクが異端者であることに変わりはない。彼女は教会や神職者という体系を通すことなく
「フランスを救え」
という神の声を直に聴き、みずから人々に告げ知らせてしまったのだから。
さて、サムソンは
――たとえ異民族であっても、神を信じ、神と約した者はイスラエル人であり、約束の地の正統な住人である。
と言った。
サムソン自身が語る通り、この考え方はモーゼ以来の伝統に則った解釈なのだが、異民族に圧迫されながら信仰を守り続け、すでに民族化していたイスラエル人の体系から導き出されたものと言えるかどうか。
さらに、サムソンは言った。
――神と約さず、戒めを守らぬ者は神の敵であり、この約束の地から追うべき悪魔である。
異端は、ある種の過激に走る傾向が強い。体系という枠(枷(かせ)と言ってもいい)が無いからである。
約束の地の片隅で、ひっそりと「神の怒りと罰」が解けるのを待つことを教えてきたイスラエルの体系から離れ、約束の地を攻め獲ろうと宣言していることにならないか。
しかし、サムソンは異端者にはならなかった。預言者とも呼ばれなかったが、この後、なんと十数年にわたり対ペリシテ闘争を指揮し、後世には、イスラエルを束ね、導いた士師のひとりに数えられることになったのである。結果として、サムソンは、イスラエルの信仰体系に新たな局面を啓いたとも言えるだろう。
――続く――
「サムソン」来週から再開します
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Posted by 冬野由記 at 21:18│Comments(0)
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